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菊池家族
在整个日本中世纪(12-16世纪)历史中,菊池家族作为一个强大的武士家族,在九州的政治舞台上一直扮演着重要角色,他们甚至还一度拥有左右全日本朝政的深远影响力。该家族的根据地位于围绕城郭发展起来的市镇——城下町“隈府”(今菊池市中心)。尽管菊池家族被宿敌消灭后已过去了数世纪,但时间仍无法磨灭他们在500年间留下的历史遗产。
菊池家族从哪里来?
菊池家族始于何时,又是如何发展的?诸般细节已湮灭于历史长河中,但普遍认为它兴起于1070年。这一年,在九州行政中心大宰府(今太宰府,12世纪以前的名称)任职的高官藤原则隆(生卒年不详)被调往如今的菊池地区。他以“菊池”为姓,又在因此得名的“菊池川”河畔建造居馆,为后世的城下町“隈府”奠定了基础。
菊池地区虽地处偏僻,却是水稻种植业发达的农业地带。菊池则隆及其子孙垄断了菊池川的水上贸易,并将当地发展成日本产量最高的农产地之一,通过贩卖周边平原地区种植的农作物积累起了大量财富。
失势
菊池则隆时代往后约100年,进入12世纪晚期后,菊池家族被卷入了一场开启日本历史新时代的斗争中。长期在朝堂相争的平家和源氏两大武士家族,为争夺国家主导权爆发了源平合战(1180-1185),全国武士家族被迫加入其中一方。菊池家族起初支持源氏,但到战争的最后阶段,又改为与以九州武士为主的平家结盟,而此时平家军已陷入困境。
源平合战以源氏获胜告终。战后建立了日本第一个武士阶层政权——镰仓幕府(1185-1333)。镰仓幕府以东日本为根据地,支持者也多来自这一地区,自然对曾经的敌人、以菊池家族为首的九州诸族心存疑虑。
菊池家族和幕府之间的不信任始终未能消解,到13世纪晚期时还进一步恶化。已经征服朝鲜的元朝皇帝忽必烈于1274年和1281年两次攻打日本,为抵御外侮,日本武士们停息了派系斗争,并肩作战。菊池家族在数次战役中为幕府而战,共同击退了蒙古人。当时的家主菊池武房(1245-1285)在战场上勇不可当,战功赫赫,却未能得到幕府的奖赏,这令菊池家族大为失望。
战功与荣光
14世纪早期,镰仓幕府的统治力衰退。幕府内外交困,一方面要耗费资源防御外敌,另一方面对地方武将和朝廷的控制已力不从心。尤其是朝廷,对幕府来而言对其的挑战更为严峻,因为后醍醐天皇(1288-1339)已经觅得让权力重归朝廷的机会。
后醍醐天皇与包括菊池家族等对幕府心存不满的武士家族结盟,于1331年举兵讨幕。1333年,菊池家族联合其他九州家族军团对幕府在博多(今福冈)的前哨机构发起攻击,千钧一发之际却遭到了同盟军团的背叛。面对寡不敌众的局面,家主菊池武时(1292-1333)先命令儿子菊池武重(1307-1341)返乡,随后抱着必死的决心向幕府军发起反击。
菊池武时和他的部下虽战死沙场,大义却占据了上风。博多一战失败后仅仅几个月,镰仓幕府就被后醍醐天皇的军队推翻。获胜后,为报答菊池家族的忠心,天皇委任菊池武重为肥后国(今熊本县;“国”是日本古代行政区划,有别于“国家”)的军事行政官“守护”。此后大约200年间,菊池家族一直担任这一显赫要职。
南朝的忠臣
后醍醐天皇复辟朝廷直接统治国家的势态终究未能长久。天皇的改革目标是回归镰仓时代以前的贵族社会和政治体制,这一方针与广大武士阶层意愿相悖。1336年,也就是镰仓幕府倒台仅3年后,昔日的镰仓武将、后醍醐天皇的旧盟友足利尊氏(1305-1358)占领京都,创立了新的武士阶层政权——足利幕府(1336-1573)。
足利尊氏拥立了一位新天皇,后醍醐天皇只得逃离京城,在京都以南、今奈良附近的吉野另建一个与幕府抗衡的朝廷,从此开启了日本南北朝时代。之后,对立的两朝为了争夺国家霸权争斗不休。
与大多数九州武士家族一样,菊池家族誓愿效忠南朝。后醍醐天皇视九州的支持者为夺回天下的关键,派遣年轻的皇子怀良亲王(1329-1383)前往九州,希望强化既有同盟并订立新同盟。
1348年,怀良抵达隈府,与家主菊池武光(1319-1373)会面,就此开启了菊池家族历史上的鼎盛时期。此后10年间,怀良和菊池武光以九州为据点,与众武士家族建立了强有力的同盟,击退了九州全境的北朝势力。1359年,同盟军在著名的“筑后川之战”中创下了最辉煌战绩,菊池家族一举击败北朝大军,取得了决定性胜利。次年年底,菊池家族率领的南朝同盟夺得了整个九州的统治权,同盟总部也转移至太宰府,这里正是菊池家族的创建者菊池则隆300年前出发的地方。
胜利后数年间,菊池家族正待巩固阵地,南朝朝廷却要求获胜的九州各家领袖前往吉野觐见天皇,不料招来横祸。菊池武光指挥的舰队从九州启航后遭遇北朝军队拦截,失利溃退,菊池武光只能撤回太宰府。为应对九州的威胁,足利幕府又任命著名的战略家今川了俊(1326-1420)为新的讨伐将军。
1372年,菊池家族率领的南朝军被今川了俊赶出太宰府,第二年菊池武光的去世更是给菊池家族造成了沉重打击。失去了这位最勇猛的将军后,怀良亲王率领的南朝军被迫退守至九州腹地。1383年,怀良亲王去世,南朝军的抵抗宣告终结,菊池家族再次退居祖传领地“隈府”一带。
转向文化
1392年,苦苦支撑的南朝终于战败。尽管大获全胜,但足利幕府还是让菊池家族继续担任肥后国的守护一职。只是菊池家族早已不复当年盛况,其威名远扬、战功赫赫的时代早已远去。
此后,菊池家族修复了与幕府的关系,甚至还得到了幕府恩宠,以一族家主的身份兼任肥后与筑后(今福冈县南部)相邻两国的守护。但此时菊池家族已经放下政治野心,将目光转向了文化。第20代家主菊池为邦(1430-1488)和儿子菊池重朝(1449-1493)致力于扩大领地内武士和城镇居民的受教育机会,鼓励他们在知识和精神上不断精进。在他们的带领下,菊池地区逐步发展为佛教和儒家学术中心。
衰退与没落
15世纪晚期,地方武将势力纷纷抬头,式微的足利幕府逐渐失去了对国家的掌控权。群雄割据,天下陷入内乱,这也打破了菊池家族的一心向学的安宁。在菊池家族内部,同样也发生了小规模的叛乱,几位长期追随菊池家族的家臣赶走了家主,向权威发起了挑战。
1504年,叛将击败菊池家主,另立一位家老(家臣之首)为家主。16世纪中叶,菊池家族的剩余领地尽数落入宿敌大友家族手中。1554年,最后一任家主菊池义武(1505-1554)去世,菊池家族世系宣告终结。
重新评价
19世纪,人们对当地历史和往日荣光又有了新的兴趣,菊池家族再次成为关注的焦点。居住在菊池的商人和地主等富裕阶层纷纷出资修复或重建菊池家族的纪念碑和陵墓。
1868年的明治维新,结束了长达大约7个世纪的武士家族统治,恢复了皇权。之后,全国上下对菊池家族留下的文化遗产又有了新的认识。以明治天皇(1852-1912)为首的新政府认定14世纪的南朝为正统皇权,南朝盟友菊池家族也被推崇为新政体下效忠君主的典范。于是,人们在隈府的居城原址上新建起了菊池神社,几位功劳卓著的菊池家主则被视作神明供奉在内。
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菊池家
在整個日本中世紀(12-16世紀)時期,菊池家作為一個強大的武士家族,在九州的政治舞台上一直扮演著重要角色,甚至還一度擁有左右日本全國朝政的深遠影響力。菊池家的根據地位於圍繞城郭發展起來的市鎮——城下町「隈府」(今菊池市中心)。即使已被宿敵消滅了數世紀,也無法磨滅菊池家在500年間留下的歷史遺產。
菊池家從何而來?
有關菊池家的形成的時期及其過程的許多細節已經失傳,但通常認為這個家族的歷史可追溯至1070年。這一年,在九州行政中心大宰府(今太宰府,12世紀以前的名稱)任職的高官藤原則隆(生卒年不詳)被調往現今的菊池地區。藤原則隆以「菊池」為姓,在因此得名的「菊池川」河畔建造居館,為後世的城下町「隈府」奠定了基礎。
菊池地區雖地處偏遠,但農業發達,是盛產水稻的農作區。菊池則隆與後代子孫壟斷了菊池川的水上貿易,同時將當地發展為日本產量最高的農產地之一,透過出售周圍平原上的農作物積累了大量財富。
失勢
12世紀晚期,即菊池則隆時代約100年後,菊池家被捲入一場開啟日本歷史新紀元的衝突。長期在朝堂相爭的平家和源氏兩大武士家族,為爭奪國家主導權爆發了源平合戰(1180-1185)。全國武士家族被迫表態必須加入其中一方,菊池家起初支持源氏,但到了戰爭的最後階段,又改為與以九州武士為主的平家結盟,然而此時平家軍已陷入困境。
源平合戰以源氏獲勝告終,隨後建立了日本第一個武士階層政權——鐮倉幕府(1185-1333)。鐮倉幕府以東日本為根據地,支持者多來自這一地區,所以對先前的敵人、菊池家與其他九州家族持懷疑態度。
菊池家與幕府之間的不信任未能消解,且在13世紀晚期逐漸加劇。已經征服朝鮮的元朝皇帝忽必烈於1274年與1281年兩次攻打日本,為抵禦外敵,日本武士停息派系鬥爭,並肩作戰。菊池家在數次戰役中為幕府而戰,共同擊退了蒙古入侵。當時家主菊池武房(1245-1285)在戰場上戰功顯赫,卻未能得到幕府的獎賞與認可,這令菊池家大為失望。
戰功與榮光
14世紀早期,鐮倉幕府勢力衰退。幕府內外交困,一方面要耗費資源防禦外敵,另一方面對地方武將與朝廷控制已力不從心。尤其是朝廷,對幕府的挑戰更為嚴峻,因為後醍醐天皇(1288-1339)已經察覺到了重掌權力的機會。
後醍醐天皇與包括菊池家在內對幕府心存不滿的武士家族結盟,並於1331年向幕府勢力起兵叛亂。1333年,菊池家聯合其他九州家族軍團對幕府在博多(今福岡)的前哨組織發起攻擊,卻在大戰將臨之際遭遇盟軍的背叛。面對寡不敵眾的局面,家主菊池武時(1292-1333)命令兒子菊池武重(1307-1341)返鄉,隨後抱著必死決心向幕府軍發起反擊。
雖然菊池武時與部下戰死沙場,但他們的大義卻佔據了上風。博多戰敗後僅僅幾個月,鐮倉幕府就被後醍醐天皇的軍隊推翻。為報答菊池家的忠心,天皇委任菊池武重為肥後國(今熊本縣;「國」是日本古代行政區劃分,有別於「國家」)的軍事行政官「守護」。此後大約200年間,菊池家一直擔任這一顯赫要職。
南朝的忠臣
後醍醐天皇復辟朝廷直接統治國家的狀態沒能長久,因為天皇的改革目標為回歸鐮倉時代前貴族社會與政治體制,這與廣大武士階層意願相悖。1336年,即鐮倉幕府倒台僅3年之後,昔日的鐮倉武將、後醍醐天皇舊盟友足利尊氏(1305-1358)就佔領了京都,創立了新的武士階層政權——足利幕府(1336-1573)。
足利尊氏擁戴了一位新天皇,後醍醐天皇只能逃離京城,在京都以南、今奈良附近的吉野另建朝廷與幕府抗衡,就此開啟了日本南北朝時代。之後,對立的兩朝為爭奪國家統治權爭鬥不休。
菊池家與多數九州武士家族一樣,宣示效忠南朝。後醍醐天皇將九州的支持者視為奪回國家的關鍵,並派遣年輕的皇子懷良親王(1329-1383)前往九州,強化既有同盟並訂立新的聯盟。
1348年懷良親王抵達隈府,會見家主菊池武光(1319-1373),由此開啟了菊池家的鼎盛時期。在接下來的10年間,懷良親王與菊池武光以九州為據點,聯盟眾武士家族建立強有力的團體,擊退了九州全境的北朝勢力。1359年,聯盟軍在著名的「築後川之戰」中贏得了最輝煌戰果,菊池家一舉擊敗北朝大軍,取得了關鍵性的勝利。次年年底,菊池家率領南朝聯盟奪得全九州的統治權,聯盟總部也轉移至太宰府,這裡正是菊池家創始人菊池則隆300年前出發的地方。
勝利後的數年中,菊池家著手鞏固防禦陣地。此時南朝朝廷要求獲勝的九州各家領袖前往吉野覲見天皇,卻不想因此遭遇飛來橫禍。菊池武光率領的艦隊自九州啟航後,遭遇北朝軍隊攔截並被擊潰。菊池武光不得不退回太宰府。足利幕府為了應對九州的威脅,任命著名戰略家今川了俊(1326-1420)為新的討伐將軍。
1372年,菊池家率領的南朝軍隊被今川了俊逐出太宰府,隔年菊池武光的去世更是對菊池家打擊沉重。懷良親王失去了最強的將領,南朝軍被迫退守至九州腹地。1383年,懷良親王離世,南朝軍抵抗告終,菊池家再次退居祖傳領地「隈府」一帶。
轉向文化活動
1392年,苦苦支撐的南朝慘敗。不過大獲全勝的足利幕府還是允許菊池家繼續擔任肥後國守護一職。只是菊池家日漸衰微,威名遠揚、戰功赫赫的輝煌時代早已結束。
此後,菊池家修復了與幕府的關係,並一度獲得幕府的青睞,菊池家主也因此得以兼任肥後與築後(今福岡縣南部)相鄰兩國的守護。但此時菊池家已放下政治野心,開始著眼於文化發展。第20代家主菊池為邦(1430-1488)與兒子菊池重朝(1449-1493)致力擴大領地內武士和居民的教育機會,鼓勵他們在知識與精神上的探索。在兩位家主的帶領下,菊池地區逐步發展為佛教和儒家學術中心。
衰退與沒落
15世紀下半葉,隨著地方武將勢力的崛起,式微的足利幕府逐漸失去對國家的掌控權。群雄割據,國家陷入內戰,這也打破了菊池家一心向學的安寧。在菊池家內部同樣發生了小規模的叛亂,幾位長期追隨的家臣趕走了家主,開始挑戰家族權威。
1504年,叛亂的武士推翻菊池家主,另立一位家老(家臣之首)為家主。16世紀中葉,菊池家剩餘領地落入了宿敵大友家手中。1554年,最後一任家主菊池義武(1505-1554)去世,菊池家宣告終結。
重新評價
19世紀,人們對當地歷史與過去的輝煌產生興趣,菊池家再次成為關注焦點。菊池當地商人或地主等富裕階層紛紛出資修復或重建菊池家的紀念碑或陵墓。
1868年的明治維新,恢復了天皇的統治權,結束了長達大約7個世紀的武士家族統治。之後,日本各地都開始對菊池家留下的文化遺產有了新的認識。明治天皇(1852-1912)新政府承認14世紀南朝為正統皇權,南朝的盟友菊池家也被推崇為新政體下效忠君主的典範。人們在隈府的居城原址上新建起了菊池神社,幾位功勞卓著的菊池家主被視作神明供奉在內。
菊池一族とは
菊池一族は今から1,000年ほど前の平安時代後期から室町時代にかけ、500年にわたって現在の菊池市を中心に活躍した武士の一族です。
菊池氏の始まりには諸説ありますが、延久2年(1070年)初代則隆が深川に館(北宮館)を構え、菊池を名乗ったことに始まるといわれています。
則隆やその子孫は菊池川を利用した海外貿易で財を成し、一族を繁栄へ導きました。令和元年に行われた遺跡の確認調査では、交易に用いられたと考えられる船着場跡が見つかっています。
源平合戦(1180-1185)の頃、6代隆直の代になると、菊池氏は肥後国最大の勢力を持つようになります。隆直は九州を勢力下に置こうする平氏と敵対し、実質的な肥後国司として近隣の豪族を糾合して平氏に対抗しました(養和の内乱)。しかし最後には降伏し、平家方となった後、壇ノ浦の戦いで討取られました。
鎌倉幕府が開かれると、源氏と敵対していた菊池氏も御家人として幕府と関りを持つようになります。得宗権力(執権北条氏)と結びついた菊池氏は肥後国の御家人を統率し、九州における地位も高かったと考えられます。蒙古襲来(1274年文永の役・1281年弘安の役)では10代武房が活躍し、蒙古襲来絵詞にもその姿を見ることができます。
鎌倉時代の末期に幕府の支配力が弱まると、天皇による政治の復活を望んだ後醍醐天皇の働きかけにより、菊池氏は九州の他の有力御家人とともに幕府打倒の兵をあげます。
元弘3年(1333年)、12代武時は博多(現在の福岡)にあった幕府の出先機関「鎮西探題」の襲撃を計画し、少弐氏・大友氏とともに討ち入りますが、土壇場で幕府側へ寝返った少弐氏・大友氏によって窮地に追い込まれます。袖ヶ浦で反撃の態勢を整える武時は嫡男武重を呼び寄せて菊池へ帰るように命じると(袖ヶ浦の別れ)、鎮西探題へ突撃し全員が討ち死にしてしまいました。その数ヶ月後鎌倉幕府は倒され、倒幕後の論功行賞により13代武重は肥後守に任じられます。これ以後菊池氏は200年あまり肥後守護の地位を守り続けました。
後醍醐天皇による政治(建武の新政)は長く続かず、かつてともに鎌倉幕府を倒した足利尊氏が室町幕府を開き、自分の正当性を主張するためにもう一つの王朝を立てると、後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れました。二つの王朝が並び立つこの時代を、南北朝時代といいます。
南北朝時代、菊池一族は一貫して南朝に味方し続けました。15代武光は後醍醐天皇が九州に派遣した懐良親王を隈府に迎え、各地で北朝方と戦いを繰り広げます。正平14年(1359年)筑後川の戦いでは、南朝軍4万騎に対し北朝軍6万騎の圧倒的に不利な状況で勝利を収め、正平16年(1361年)には大宰府を制圧します。その後博多を落とした武光は正平18年(1363年)豊後大友氏を降参させ、九州制覇を成し遂げました。
一方、大宰府を奪われた北朝方は南朝方に対抗するため、今川了俊を九州探題に任命します。了俊は豊後大友氏、肥前松浦党、中国地方の豪族などとともに大宰府を攻撃し、文中元年(1372年)ついに大宰府は陥落してしまいました。ここで11年間に及ぶ征西府の大宰府統治は終焉を迎えます。
武光はこの頃死去したと考えられており、征西将軍懐良親王も天授元年(1375年)に征西将軍職を甥の良成親王へと譲り、奥八女へ隠退しました。懐良親王は現在の八女市星野にある玉水山大円寺にて戦で亡くなった人々の菩提を弔いながら余生を過ごし、弘和3年(1383年)3月に55歳で亡くなったと伝わっています。
武光の跡を継いだ16代武政もその後すぐに亡くなり、息子の武朝がわずか12歳で菊池氏17代当主の座につきました。武朝は良成親王とともに南朝の勢力を盛り返すため奮戦し、天授元年(1375年)水島の戦いでは今川勢の内紛に乗じて大勝を収め、天授4年(1378年)託麻原の戦いでも数に勝る北朝方を打ち破りました。しかし菊池一族を取り巻く情勢は次第に悪くなり、弘和元年(1381年)ついに本拠地守山城が陥落、良成親王は武朝とともに宇土城、八代、高田御所、大杣(筑後矢部)と転戦します。しかしとうとう南北朝合一まで菊池氏の本拠が回復することはありませんでした。
元中9年(明徳3年・1392年)、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位し、南北朝合一がなされると、武朝は改めて肥後守護に任じられます。これ以後、菊池氏は16世紀初期まで肥後国守護職を保持し、隈府は肥後国の守護所として発展していきました。
その後20代為邦の頃になると筑後所領を失うなど徐々に菊池氏の勢いに陰りが見られるようになりますが、その一方で、為邦と息子の21代重朝の代は、菊池で文教の高揚がみられる時期でもありました。為邦は重朝に代を譲った後、亀尾城下に隠棲し、日夜碧巌集の研究に励んだと伝わっており、15世紀中頃編纂された『投贈和答等諸詩小序』には、為邦の文才を褒め称える話がみられます。為邦の跡を継いだ重朝も学問を重んじ、菊池を訪れた桂庵玄樹に教えを乞うほか、文明4年(1472年)には孔子堂を建て、多くの家臣を集めて儒学の学習を行っています。また、文明13年(1481年)には一日一万句を詠む連歌の会を催し、そこで詠まれた句は「菊池万句」と呼ばれました。
19代持朝から21代重朝の代は菊池一族内の争いが次々と起こったうえ、南北朝合一後も争いを続けていた阿蘇氏同士の争いに加担した際の敗戦などで、菊池一族の権威が衰え始めます。重朝の子、22代能運の代には相良氏との争い、宇土為光(為邦の弟)による隈府城の占拠などが起こり、永正元年(1504年)病床の能運が没すると、菊池氏正統は途絶えてしまいます。
跡を継いだ23代政隆は20代為邦の弟為安の孫にあたり、能運の遺言によって菊池本家を相続し、肥後守護となりました。しかしこのころ九州で勢力を拡大していた大友氏の働きにより、肥後守護の地位はすぐに阿蘇惟長へ移ります。菊池家重臣84名の連判誓書により菊池家へ入った惟長は菊池武経と名を改め、復興の機を窺う政隆を退けますが、次第に菊池家家臣との仲が悪くなり、永正8年(1511年)阿蘇家へ戻ります。
武経が菊池を去った後、菊池家の重臣達は菊池家支流の詫磨武安の子武包を迎えることとし、武包は菊池氏系統最後の肥後守護となりました。しかし菊池氏の力は衰退しきっており、大友家当主となった義鑑の弟重治によって武包は守護の座を追われ、重治が肥後守護となります。重治は菊池義宗(後に義武)と改名し当主となるも、菊池家家臣と折り合いが悪く、天文3年(1534年)八代へ逃れた果てに甥の大友義鎮(後の宗麟)に討たれ、ここで菊池氏系統は消えてしまいました。
江戸時代1800年代になると、地元の歴史への関心が高まり、裕福な商人によって菊池氏ゆかりの碑や墓が整備されたり、学者によって菊池氏の業績が書き記されたり、菊池氏が再び脚光を浴びるようになります。明治維新を迎えると南朝に貢献した菊池氏は忠臣として高く評価されるようになり、本拠地守山城跡には菊池一族を祭神とする菊池神社が建てられました。