菊池一族 the Kikuchi Clan

02水島の戦い

2024年05月20日

武朝のイラスト画像

 1375(天授元)年4月8日、肥後まで攻め込んだ智将今川了俊率いる今川勢は日岡(ひのおか)城(山鹿市)に布陣。武朝率いる菊池勢は水島(菊池市七城町)の台城に陣をとり、今川の大軍と対峙します。

大宰府陥落後、勢いを増す今川勢を相手に、菊池勢は高良山より菊池への後退を余儀なくされていました。その菊池勢を追って、了俊は筑後から肥後へと入り、山鹿へと陣を進めてきたのです。その中には、九州の三大勢力である大友親世(ちかよ)、島津氏久(うじひさ)、少弐冬資(ふゆすけ)の姿もありました。ここから数か月間のにらみ合いが続きます。

一触即発の緊張状態が続く中、冬資がひそかに菊池勢へ好を通じてきました。了俊を快く思っていなかった冬資。その心が、菊池へ通じるという動きとなったのです。これを知った了俊は、一計を案じます。氏久に頼んで、冬資を自陣に招き酒宴を開催。宴もたけなわというまさにその時、なんと冬資を暗殺してしまったのです。

「なんたる無礼、非礼極まりなし!これでは共闘などもってのほかじゃ!」

面目をつぶされたも同然の氏久は激怒、ただちに自分の軍勢を率いて薩摩へ帰ってしまいました。さすがの今川勢も、これには大きな動揺を隠せません。

「なに?! 島津勢が引き揚げただと。天は我に味方した!願ってもない好機到来!」

「この一戦は、南朝の正念場じゃ!なんとしても勝たねばならぬ。今こそ菊池勢の力を見せようぞ!!」

ここで勢いづいたのは、菊池勢です。ここぞとばかりに攻撃を開始。9月8日、水島を舞台に戦いが繰り広げられます。この戦いは、刀折れ矢尽き、落ちた矢を拾って射るほどの激戦だったと伝えられます。島津という主力を失い動揺のさなかにある今川勢は大敗、了俊は肥前の武雄まで総退却となったのです。武朝、13歳での大勝利でした。


台城跡  

台城跡

 


 


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