「うてな」城と読みます。菊池十八外城の一つで、別名を水島城といいます。この辺り一帯は、菊池方面から七城地域へ伸びる丘陵地の崖の西端部にあたるところで、地理的にも地形的にも城郭に相応しい条件下にあると言えます。特定の城主はおらず、交代制であったとの記述もありますが、この位置、状況から見て、北西方面に向けた重要な戦略上の要地として菊池氏直属の城であったことは確かでしょう。
特に大きな舞台になったのは1375(天授元)年の水島の戦いです。時の当主は、若干13歳の菊池賀々丸(かがまる)。後の17代武朝(たけとも)ですが、この時はまだ元服すら果たしていない少年でした。祖父の武光、父の武政を相次いで亡くし、当主の座を受け継いで間もなく高良山からの撤退を余儀なくされ、本領菊池で今川了俊(いまがわりょうしゅん)の肥後侵攻を食い止めるための極めて重要な一戦でした。この戦いは今川側の内紛の影響もあり、激しい攻防の後、わずか2000余騎で息をつくまもなく奮闘した菊池勢が勝利を収めました。しかし続く蜷打(になうち)の戦い(今川勝利)、詫磨原(たくまばる)の戦い(菊池勝利)を経て、今川が再び菊池の本拠に攻め寄せた1379(天授5)年の板井原(いたいばる)の戦いでは亀尾城を拠点にこの台城が落とされ、この後1381(弘和元)年に菊池の本拠守山城が陥落することになったのでした。
『阿蘇文書』の中には、南北朝期に既に「古城」と呼ばれた記述も見えるので、菊池の城郭の中でも早期の城に分類でき、この地域の字名に「城の上」「城の下」「城の前」「堀田」などの言葉のほか、丘陵地南側の麓の集落にも「東屋敷」「西屋敷」という地名がついていることから、もともとは砦というよりも館であった可能性も考えられます。