懐良親王は、征西将軍として九州の南朝勢をまとめあげることを目的に派遣された、後醍醐天皇の皇子です。
7歳のころに都を出発し、五条頼元などわずか12名の従者とともに瀬戸内海経由で九州を目指しました。
大分からの九州上陸を計画していたのですが、北朝方の大友氏に阻まれ、3年間を愛媛県の忽那氏のもとで過ごしました。
結局大分上陸は実現の目途が立たず、一行は鹿児島からの上陸に計画を改め、谷山氏のもとでさらに3年、肥後入国の機会を窺います。
その頃の肥後では、菊池は13代武重(サイト内リンク)の後14代の武士が跡を継いでいましたが、南朝勢を牽引するほどの力はなく、頼りの阿蘇は当主の惟時がどちらの陣営につくのか態度をはっきりさせないまま時間ばかりが過ぎていくという有様で、独自の軍勢を持たない懐良親王は頼る相手を見出せずにいました。
この状況を打開したのが15代武光(サイト内リンク)です。庶子でありながら実力で当主の座を掴んだ武光は、その圧倒的な手腕をもって親王を惹きつけました。親王は武光による庇護を目指して、海路、宇土から肥後入国を果たします。
1348(正平2)年、十年もの歳月を経て下向した親王を迎え、九州南朝の中枢である征西府が菊池に置かれることになりました。これ以後、親王と武光はともに手を取り合い、九州中を転戦する日々が始まります。
中でも最大の戦となった「筑後川の戦い」は日本三大合戦の一つにも数えられる戦で、親王自身も三か所に重傷を負いながら自ら剣を振るって戦いました。この戦を経て、親王と武光はついに九州の首府である大宰府を制圧し、南朝方としての九州制覇を成し遂げます。征西府は菊池から大宰府に移され、政が行われました。
その都の繁栄ぶりは、倭寇の取り締まりを要請する明国の使者が、大宰府を日本の都だと思い込んでやってきたほどのものでした。親王は使者の高圧的な態度に最初は激怒していたものの、明の後ろ盾という魅力に着目し、日本の国王として明と朝貢貿易を結ぶことにしました。
南北朝の統一後、日明貿易を希望した足利義満が明に使者を送ったところ、「日本の国王は懐良親王であり、その臣下とは貿易できない」と断られてしまったのです。
説得と手続きを重ねに重ねて正式に王と認められるまで、義満は懐良親王の代理として貿易をせざるを得なかったという話が明国側の『明太祖実録』という書物に記録されています。
大宰府における征西府の黄金時代は12年続きましたが、室町幕府の懐刀である今川了俊の派遣によって潰えました。
混乱のさなかに武光は謎の死を遂げ、残された懐良親王は16代武政、17代武朝(サイト内リンク)とともに戦いますが、武光はじめ多くの臣下を失った悲しみから逃れることが出来ず、失意のうちに征西将軍職を甥の良成親王に譲って隠退しました。
晩年の懐良親王は、天然の要害である八女の星野に移り住み、大円寺で動乱の犠牲者の菩提を弔いながら余生を送り、1383(弘和3)年、55歳でその生涯を閉じました。
懐良親王の墓所については複数の説があり、八代市の懐良親王御陵(宮内庁認定)ほか、八女市大円寺の懐良親王御墓所、久留米市千光寺の懐良親王御陵が伝わっています。