1373(文中2)年に祖父・武光(サイト内リンク)を、その翌年に父である16代武政を亡くし、弱冠12歳で家督を継ぎました。幼名を賀々丸といい、元服も迎えぬうちに侍大将として立ち、翌年13歳で九州探題今川了俊の大軍勢を菊池の水島で迎え撃ち、華々しい勝利を飾りました。しかしその後、後征西将軍として懐良親王の甥、良成親王を迎えて挑んだ蜷内(になうち)の戦いは、惨敗。多くの側近を失いました。
その後体制を建て直して挑んだ詫磨原の合戦では、大軍勢を相手に勝利を収め、暮れゆく南朝方に最後の輝きをもたらしましたが全体的な戦局は奮わず、菊池の本城も奪われて征西府は次第に肥後南部へと押されていきました。
川尻から宇土、そして八代へと拠点を移す中で、南朝内部にも戦乱の終結を望む声が上がりはじめ、あくまで南朝再興を目指して徹底抗戦の構えを崩さない武朝と良成親王は孤立していきます。
そして1384(元中元)年、武朝の失脚を目論む一派が、南朝朝廷に彼を貶めるような内容の訴えを起こし、朝廷はその真偽を確かめるために良成親王の下に使いを出して問い質しました。これを受けて武朝は自ら筆を執り、菊池一族がそれまでに示してきた忠義の数々と、自らの潔白を主張しました。南朝朝廷はこれを受け入れ、武朝の地位が奪われることは避けられました。
しかし、依然として南朝不利の状況は変わらず、ついに1392(元中9)年、南北朝は合一します。ここで特筆すべきなのは、南北朝の合一後、武朝はかつての宿敵今川了俊の手により、改めて肥後守護に任命されたということです。これは、敵方から見ても、肥後における菊池氏の功績を無視することは出来なかったということを示しています。
現代における武朝の足跡は、北宮阿蘇神社に見ることが出来ます。武朝自身が創立に関わったと伝わるこの神社には、「大願主肥後守藤原朝臣武朝」と記された木造男女神坐像が奉納されています。奉納の日付は1403(応永10)年6月1日。南北朝合一から10年を経て、未だ争いの中にありつつも、肥後守護としての武朝の確かな存在感を感じられるものです。