菊池一族 the Kikuchi Clan

北宮館跡(菊之城)

2022年09月06日

菊之城写真

北宮館跡(菊之城)は、別名深川城、菊池古城、雲上城ともいいます。令和6年2月21日に国指定史跡に指定された「菊池氏遺跡」の構成要素の一つです。菊池氏遺跡が国指定史跡になる際に、名称が変更されました。

菊池の中央に位置し、南には菊池川が流れ、起伏の少ない平地の一角です。城跡というよりは一般的な館の跡ではないかと考えられています。

※「菊之城」は、江戸時代から使用され始めた名称です。

1070(延久2)年頃、菊池初代則隆が築き、15代武光の頃まで菊池一族の居館として使われていたようです。

則隆がこの地に館を置いた大きな理由の一つに、菊池川の水運が挙げられます。当時、大量の荷物を運ぶ際には舟で運ぶのが主流であり、菊池川は物流の大動脈となっていました。そのすぐ傍に館を構えることで、交易などの利便性を図ったものと思われます。そのため、別名の「雲上」は「運上」から付けられたものではないか、とも考えられています。

深川の港
▲深川の港(イメージ図)

地形は龍門・迫間方面から南下する丘陵の落ち際で、「城の堀」という字名が残っています。丘陵の段差面をうまく利用しており、広い階段状の地形の一隅に堀をめぐらすことによって長方形状の独立区画を作っていて、現在は水田になっています。

菊之城略測図
また、周辺には他にも「船着」、「屋敷」、「古屋敷」、「鐙田(あぶみだ)」、「稽古田(けいこだ)」など、昔を偲ぶ地名が残っています。

北宮館跡から少し東に行くと「上市場」、「下市場」という字名もあり、かつては荷揚げされた品物を扱う市として大いに賑わっていたことを想像することが出来ます。


上市場・下市場

▲上市場・下市場の様子(イメージ図)

利便性の良い平地の居館として築かれた北宮館ですが、戦乱期においては防御面において分が悪く、複数回にわたって敵に奪われた記録があります。南北朝時代、菊池一族の最盛期を築いた武光は、九州を平定した後、存命中に肥後守の地位を長男である16代武政に譲ります。この武政の治世下で、菊池の本拠は深川・北宮地区から隈府地区に移されました。

本拠が移ってからも、北宮館は外城の一つとして、また、菊池川の重要な船着場として活用されたものと考えられています。

北宮館跡については、発掘調査が続けられています。令和4年3月の成果報告会の様子はこちらからご覧いただけます。


 菊之城イラスト

北宮館跡(イメージ図)

 



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