武光が豊田荘で大躍進を見せていた頃、菊池本領では大きな難題に直面していました。
1345(興国6)年、北朝方の合志幸隆(サイト内リンク)が、菊池の本拠である北宮館(菊之城)(サイト内リンク)を占領してしまったのです。
この当時、先代の武重亡き後、跡を継いでいたのは弟の14代武士でした。懸命に一族を牽引するべく奮闘していたものの、めまぐるしく変わる情勢の中での舵取りは非常に厳しいものでした。ついには当主隠退の表明にまで至り、菊池は実質上の当主不在の状況にありました。
この急難の報せを、武光は奮い立つ心のままに受け取りました。
庶子として生まれ、当主の候補にも入っていなかった自らの活路が、この時目の前に示されたのです。
武光はすぐさま、盟友阿蘇(恵良)惟澄に連絡を取りました。共通点も多く、ともに実力者であった武光と惟澄は互いによき理解者であり、深い親交を築いていました。この武光一世一代のチャンスに、惟澄は一切協力を惜しみませんでした。
「惟澄殿。菊池の北宮館が、落とされたらしい」
「随分物騒な話だな。相手方に同情する」
「・・・・・・?」
「お前さんのその物騒な闘志の前では、相手の守りも十日と持つまいよ」
3月10日、武光は惟澄の援助を受けて菊池へ至り、昼夜を問わず激戦を繰り返しながら、まずは合志幸隆の築いた向城(むかいじろ)を奪取。それを足掛かりに館を奪還して合志勢を追い落としました。奪われた館への攻撃を開始してから、6日目のことでした。
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