菊池一族 the Kikuchi Clan

合志幸隆

2021年03月19日

地元で活躍した菊池一族のライバルと言えば、現在の泗水、旭志地域や合志市、大津町あたりを治めていた合志一族が挙げられますが、実は合志を名乗る家には3つの流れがあります。蒙古襲来にも菊池の配下として参戦した菊池系合志、かつての鎌倉幕府の文官御家人であり、肥後の領有地に下向した中原系合志、そして今回、北朝方の代表格としてご紹介する、佐々木系合志です。最盛期には肥後における北朝方のリーダーとして活躍し、菊池14代武士(たけひと)時代の菊池本城を占拠して菊池一族を追い詰めました。この人物こそ佐々木系合志一族初代と伝わる合志幸隆です。

合志幸隆(こうしゆきたか)のイラスト左図:合志幸隆(イラスト)

 佐々木系合志は『下(くだ)り合志』とも呼ばれ、肥後に残る文献中で合志幸隆と呼ばれている人物は、源氏の流れを持つ近江の国の有力武将、佐々木長綱(ながつな)だったのではないかとする説もあります。残されている史料は少ないながらも、北朝方において肥後の中でも最も地位が高く、中央からも厚い信任を得ていたことがわかっています。

 幸隆は肥後における責任者として、複数の文献中に登場していますが、中には『合志能登守(のとのかみ)』と書いたものが残っています。実はこの時代、貴族以外で○○守という称号を持つ者は極めて珍しく、菊池13代武重が肥後守を与えられたのが、武家としては最初期の例とも言われています。つまり、この時代に能登守と名乗ることを許された幸隆は全国的に見ても高い地位を持つ人物であると考えられるのです。また、泗水久米にある安国寺は、足利政権が全国統治のため各国に一つずつ建てさせた寺で、その存在こそが、北朝側から見た肥後の中心がこの地方にあったことを示しているのだと考えることができます。

 菊池15代武光の登場後、幸隆は苦戦を強いられることになりますが、これほど近くにいながら菊池に下ることはなく、その喉元で一貫して北朝方として戦い続けました。地元におけるライバルは、意外と似たもの同士だったと言えるのかもしれません

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