菊池一族 the Kikuchi Clan

03懐良親王と武光

2023年07月07日

武光の快進撃を歓迎したのは惟澄ばかりではありませんでした。戦と政治、いずれの能力にも長け、菊池の武力を継いだ武光の台頭を誰よりも待ち焦がれていた人物が、菊池の外にいたのです。

南朝朝廷から九州に派遣されていた後醍醐天皇の皇子、征西将軍懐良(かねなが)親王でした。

懐良親王と菊池武光のイラスト画像

懐良親王は、現地の武士たちに領地を保証し、南朝勢力の核として彼らをまとめ上げるという使命を帯びて都から派遣されました。しかし、供として付き従った臣下は五條頼元をはじめとする文官の12人で、権威はあっても武力はもたず、現地で自らを庇護してくれる勢力を確保することが親王にとって最大の課題でした。


都を出発した懐良親王は、当初豊後(大分)からの九州入りを計画し瀬戸内海を西下しましたが、豊後を押さえる北朝方の大友氏の目をかいくぐるのは難しく、忽那水軍の力を借りながら薩摩(鹿児島)の谷山で九州上陸を果たし、この頃はこの地に征西府(九州を統括する南朝朝廷の代理機関)を置いていました。しかし、九州攻略の頼みの綱である菊池家は武重を失って以来の低迷期、阿蘇の大宮司惟時は南北いずれに味方するのか態度をはっきりさせず、親王たちは肥後を目の前にして足踏み状態になっていたのです。


この状況下で武光は、圧倒的な実力を見せつけながら、歴史の表舞台に躍り出ました。本城の奪還後、武光は当主として菊池に入城することになるのですが、一族のなかにはこの功をもって武光の家督相続を認めることに反対する人々もいた、とする説もあります。


ここで武光は、ある突破口を見出しました。


「私なら、九州を全て平らげて御覧に入れます。この武光にお賭けください、懐良親王さま!」


武光は征西府へと使いを出し、先に肥後守(朝廷が認める領主職)への任免を受けたと見られています。停滞する菊池の情勢を打ち破り得るだけの戦の手腕を十分に見せつけたうえで、一豪族の家督よりも重い朝廷のお墨付きを獲得し、一族内部の反対意見を全て摘み取ってしまったのです。武光の軍事力のみならぬ政治的なしたたかさを窺い知ることが出来るエピソードです。


そして1348(正平3)年、都を出発してから12年の歳月を経て、懐良親王はついに菊池入城を果たしました。


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