8月6日夜半、武光は勢いに乗じて夜襲を決行します。300騎の襲撃隊を率いたのはまだ17歳の長男・武政(後の16代当主)でした。武政は少弐軍の背後を突き、大混乱に陥ったところを武光率いる本隊が正面からの攻撃を加えました。
挟み撃ちにされた少弐軍は、夜闇の中で敵が大軍勢であると錯覚し、多くの兵が同士討ちで犠牲になりました。征西府軍は当たるを幸いに、次々に少弐軍を倒していきますが、この状況は夜明けとともに次第に変化していきます。はっきりと相手の姿が見えるようになると、元来の戦力差が響き、次第に少弐軍も勢いを盛り返してきたのです。
これを見た懐良親王は、味方の士気を鼓舞するため、前線へと躍り出ました。懸命に戦う兵たちとともに剣を振るい、数の不利を挽回しようと奮闘します。
しかし、この好機を、決して少弐軍が見逃すことはありませんでした。大手柄を狙った敵兵が我先にと押し寄せ、親王は数か所に矢傷、太刀傷の重傷を負いました。
この時武光は主力の本隊を率いており、駆け付けることは出来ません。血の凍るような緊張感の中、辛うじて親王は新田一族に救出され、高良山系の谷山城へと搬送されました。
もはや、一刻の猶予もありません。このまま長引かせれば、味方の士気は下がり、大勢に飲みこまれてしまうことは明白です。
武光の大音声が、戦場に響き渡りました。
「菊池の衆よ、我に続け!惜しんだ命が何をか為さん。一統余さず、ここを死に場所と心得よ!」
武光は先頭に立って次々に敵を薙ぎ払い、絡め取りながら前進しました。敵の矢が刺さってハリネズミのようになっても意に介さず太刀を振るい、馬は傷つくたびに17度も乗り換えたと伝わっています。
そしてついに主将・少弐武藤の首を取ると、大将・頼尚は宝満山へと敗走しました。ここに、日本三大合戦のひとつとされる筑後川の戦いが終結したのです。
この戦いの終わりに、一つの逸話が残っています。
武光が持っていた刀を、足許を流れる小川で洗ったところ、ギザギザに刃こぼれした刀から溢れ出した血が川を一面真っ赤に染め、この川を「太刀洗川」と呼ぶようになったというものです。
月日が流れ、現代にまでその地名は伝わり、福岡県大刀洗町の名前の由来になりました。
筑後川の戦いについて、詳しくは下記URLよりご覧ください。
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