1361(正平16)年、武光は大宰府を制圧。次いで博多を落とします。そして1363(正平18)年、豊後の大友氏時を降参させ、九州制覇を成し遂げました。
古代からの九州の都である大宰府を手に入れたことで、征西府は菊池から大宰府へと移され、九州の統治が行われました。
この時期の九州に、当時中国の王朝だった明国からの使者が訪れています。使者の目的は、明の商船などを襲う日本人の海賊(倭寇)の取り締まりでした。懐良親王のことを、日本を代表する王と考え、明の皇帝の国書を携えてきたのです。1369(正平24)年のことでした。
この国書は非常に無礼な内容であったとされ、親王はこれを無視して取り合いませんでした。すると翌年、今度は趙秩(ちょうちつ)という使者が再び国書を持って来国。親王は激しい怒りをあらわにしました。
「かつて蒙古は我が国を小国と侮り、服従させようとして趙という姓を持つ者を遣わした。十万の大軍が海を覆うがごとく押し寄せてきたが、それも海の泡と消えたものじゃ。今、新たな皇帝が同じく趙という名を持つ使者を送るとは!貴様もまた蒙古の後継として、我が国に仇をなそうとしておるのか?」
親王は傍に仕えていた武政に命じ、趙秩を斬り捨てようとしたため、趙秩は慌てて逃げ帰ったと伝わっています。大国にも臆することのない懐良親王でしたが、交渉を重ねるうちに「明の後ろ盾」という魅力に着目します。そして明と正式に約束を交わし、室町幕府に先んじて、朝貢貿易を行う「日本国王良懐」として認められたのです。
この話の後日談として、時が下り、南北朝平定後に室町幕府の3代将軍義満が明国へ日明貿易を持ちかけた時、明国から「良懐の『家臣』とは貿易できない」と断られ、しばらくは懐良親王の代理という立場を取らざるを得なかったという逸話も伝わっています。
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