菊池一族 the Kikuchi Clan

09東征の挫折

2023年07月07日

九州制覇を成し遂げた懐良親王にとって、次に目指すべきは都への東上に他なりませんでした。そもそも親王の九州下向自体が、九州を平定し、その戦力による都の奪還を目的にしたものであり、当然の意向であったと言えます。


しかし、現実は非常に厳しい状況でした。南朝朝廷は衰退し、主力を担った武将はことごとく討死。全国で唯一南朝方が優勢を誇っていたのは、九州だけだったのです。


更に、九州からの都攻めには瀬戸内海の制海権獲得というあまりに大きな課題が残っていました。当時、人やモノを輸送する際の大動脈は、水路。そうでなくとも陸路は北朝方の勢力で塞がれており、かつて懐良親王自身が都から瀬戸内海を通って九州上陸を果たしたように、都攻めも海路による東上が前提となっていました。つまり、瀬戸内海を無事に渡りきれるかどうかが、都攻め以前の問題として征西府にのしかかっていたということです。


菊池武光のイラスト画像武光にとっても親王にとっても、極めて悩ましい状況でした。特に武光には、先祖悲願の地である大宰府を手中に収めた今、敢えて更なる分の悪い賭けに出る理由がないのです。


菊池一族の当主として、或いは、懐良親王の随一の臣下として、武光は決断を迫られていました。


「宮様、都へ参りましょう。ここ大宰府は我ら菊池一族にとって悲願の地。宮様の御威光をお借りしてこの地に入った我らが、どうして宮様の都帰りを妨げることなど出来ましょうや」

 


 


1368(正平23)年、征西府は7万騎を大船団に仕立て、豊後(大分)の鶴崎から瀬戸内海へ向けて出港しました。ところが、大友氏継(うじつぐ)、大内義弘の水軍に立て続けに攻撃され、あえなく敗退を喫します。海上の戦闘に、陸戦の経験値は全く意味を為しませんでした。


そしてこの敗戦は、征西府衰退の大きなきっかけとなり、その後の情勢に巨大な影を落とす結果となったのでした。


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