菊池一族 the Kikuchi Clan

10大宰府陥落

2023年07月07日

失敗には終わったものの、征西府の東上計画は室町幕府を大きく動揺させました。一色範氏が九州を追い出されて以降、細川繁氏(うじつぐ)、斯波氏経(しば うじつね)、渋川義行と立て続けに3人が探題として任命されましたが、いずれも征西府の勢いを削ぐことは出来ず、九州上陸すら出来なかった者もいたほどでした。  


正念場とも言うべき事態に、幕府は一つの決断をしました。当時幕府の主要人物の一人であった今川了俊(りょうしゅん)を、九州に派遣することにしたのです。

幕府きっての智将と呼ばれる今川了俊は、九州探題に任命されてから実際に九州入りを果たすまでにおよそ2年もの歳月をかけて体制を整えました。中国地方、そして九州の豪族たちを説得し、武光と戦う入念な下準備を行ったのです。


「戦神と呼び声の高い菊池武光を相手に、戦場でまともに勝負を挑むのは無謀の極み。何年かかったとしても、必ず大宰府を落とし得る舞台作りこそが、唯一の攻略法であろうよ」


馬に乗った菊池武光のイラスト画像了俊はまず、息子の義範を豊後(大分)に送って大友氏と結ばせ、大宰府の東に置きました。弟の仲秋は肥前(佐賀)に送り、松浦党とともに西に待機させ、1372(文中元)年8月、自身が中国地方の豪族たちを引き連れて豊前(北九州)から攻めることで三方からの一斉攻撃を図りました。



征西府はこれに応戦しつつ、集中攻撃を逸らすため、九州各地の南朝勢に蜂起を呼びかけるなど、懸命に対応を模索しますが、猛烈な攻勢の前に大宰府の維持を断念。久留米の高良山へと敗走し、11年間に及ぶ征西府の大宰府統治は終焉を迎えました。

 


 


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