菊池一族 the Kikuchi Clan

11巨星、落つ

2023年07月07日

大宰府陥落は、征西府にとって大きな痛手となりましたが、実はこの前後に、それ以上とも呼べるほどの恐ろしい事態が起こっていました。

百戦百勝と謳われた最強の指導者、菊池武光が亡くなったのです。

武光の死の真相は、現在でも解明されていません。敵にとっても味方にとっても巨大な存在であったがゆえに、徹底的に隠されたからです。


征西府は大宰府陥落から1年3か月後の1373(文中2)年11月に武光の死を公表しましたが、この年の2月、最高責任者として息子・武政が同盟相手であった阿蘇維武に援軍を頼む手紙を出しています。この時点で既に亡くなっていたか、重篤な病床にあったということでしょう。


文書上に残された情報を更に遡ってみると、大宰府攻撃の半年前にあたる1372(文中元)年3月以降、残された文書の中に武光の名は登場しておらず、実際のところ大宰府決戦の際に存命であったかどうかすらわかってはいません。一説には、大宰府が総攻撃を受けた時点で既に武光は他界しており、その為に今川了俊の侵攻を許してしまったとも言われています。


武光の死のイラスト画像このあまりに大きな喪失に最も衝撃を受けたのは、やはり懐良親王でした。高良山から菊池へと帰り抗戦を続ける中で更に心は摩耗し、ついに1375(天授元)年、征西将軍職を甥の良成親王へ譲り、奥八女に隠退しました。


「武光……、私にはもう、征西府を支えることは出来ない。そなたが息を引き取った時、私の心も粉々に砕けてしまった」


親王は現在の八女市星野にある玉水山大円寺にて、戦いの中で亡くなった人々の菩提を弔いながら余生を過ごし、1383(弘和3)年3月、55歳で亡くなったと伝わっています。

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