菊池一族 the Kikuchi Clan

菊池一族年表

2021年09月09日

タイトル

平安時代に始まる、菊池一族の歴史。室町時代までの菊池氏の動きを年表にまとめました。

歴史の波にのまれた彼らが残した、確かな足跡をご覧ください。

菊池一族当主一覧(PDF 約2MB)


今日は何の日?


平安時代




菊池一族歴史年表(平安時代)
西暦年号菊池のうごき
【 】内の数字は菊池一族の代を示す
日本のうごき
1070延久2[1]藤原則隆 大宰府の荘官として菊池に来る
則隆 京都より岩本に大宝山円通寺本堂を奉遷

1109天仁2[4]經宗 鳥羽院の武者所に出仕する

仁平中このころ亀ヶ城に源為朝が居すると伝わるこのころ加恵八幡宮・加恵諏訪宮が建立される
1180治承4[6]隆直 平氏に反抗、大宰府を焼く(養和内乱)源頼朝が挙兵
1182寿永元隆直 平氏追討使に攻められ、糧食が尽きて降伏する1181 平清盛死す


鎌倉時代



菊池一族歴史年表(鎌倉時代)
西暦年号菊池のうごき
【 】内の数字は菊池一族の代を示す
日本のうごき
1185文治元隆直 菊池家の「日足紋」を「並鷹羽紋」に改める平家滅亡 鎌倉幕府成立
1186文治2隆直 源氏軍に敗れて京都で義経に斬殺される
[5]經直 肥前で流鏑馬に出場し、落馬し死去
1192 頼朝征夷大将軍に

建久中中原師員(後の竹迫氏)が合志郡の地頭職となる『肥後国誌』
1221承久3[7]隆定 承久の変で敗れ、所領一部没収される貞永式目制定

文永中[10]武房 円通寺に15町を寄付
1274文永11武房 元寇で、博多に出陣する(文永の役)



北条定宗・随時が元寇軍事催促の途上、田島天徳寺を再興する『合志川芥』・『肥後国誌』


1281弘安4再度の蒙古襲来に一族で参戦する(弘安の役)1293 鎮西探題設置蒙古襲来絵詞できる
1304嘉元2[11]時隆 叔父と家督を争い、刺し違えて死ぬ
日置恒治が福本に千田聖母八幡宮を勧請する『肥後国誌』


元応中東明慧日が久米に青原山寿勝寺(後の安国寺)を建立する(再興説もある)『肥後国誌』
1327嘉暦2
大智、加賀国に祗陀寺開
1333元弘3[12]武時 鎮西探題を襲撃し討死(袖が浦の別れ)鎌倉幕府滅亡


南北朝・室町時代



 菊池一族歴史年表(南北朝・室町時代)
西暦年号菊池のうごき【 】内の数字は菊池一族の代を示す日本のうごき
1335建武2箱根竹下の戦いで[13]武重勝利(菊池千本槍)
1336延元元武村、新田義貞軍に属し苦戦、大渡橋上で討死
武敏、足利軍と多々良浜(福岡)で戦うが敗れる
南北朝の対立


武吉、湊川の戦で楠正成らとともに自刃する
1337延元2武重、寺尾野城で挙兵し、合志幸隆を攻める
佐々木長綱が延暦寺の寺領奉行として大津真木村に下向、のち姓を合志と改める『肥後国誌』

1338延元3武重 「寄合衆内談の事」(菊池家憲)を定める


少弐頼尚、稗方原にて菊池勢と対戦する
1339延元4久米の青原山寿勝寺が肥後の安国寺となる『肥後国誌』安国寺建立令下される
1341興国2[14]武士 武重の死後、肥後守を継ぐ
1344興国5[15]武光 合志幸隆から菊池城を奪還し家督継承 武光、熊耳山正観寺を建て、菊池五山制を定める
1348正平3懐良親王、征西将軍として菊池に入る
1351正平6大智禅師、聖護寺を出て玉名の広福寺に入る
1353正平8懐良親王、武光らを率いて筑後高良山に布陣する
1355正平10武光、懐良親王ら九州北部を抑えて、大宰府を占領倭寇の活動盛んになる
1359正平14武光、懐良親王を奉じ、大保原(筑後川)合戦で勝利1358 足利尊氏病没
1361正平16征西府が大宰府に移される(全盛時代)
1362正平17武光、長者原の戦いで大友・少弐軍を破る
1367正平22[16]武政、肥後守となって、菊池城(守山城)を築く
1368正平23懐良親王、武光らと東上計画(上洛)を決行し失敗足利義満 将軍となる
1369正平24明の使者が征西府にきて、倭寇の禁止を求めるこの頃『太平記』できる
1370建徳元今川了俊(貞世)、九州探題となる
1372文中元今川軍に征西府占領され、武光ら高良山へ退く
1373文中2武光死亡か?
1374文中3久留米の高良山にて武政死亡 [17]武朝 懐良・良成親王を奉じ、隈府に帰る
1375天授元武朝、今川了俊軍を水島の戦いで破る 懐良親王、征西将軍の職を良成親王に譲る
1377天授3武朝、肥前蜷打にて今川軍に破れて、肥後に退く
1378天授4武朝、阿蘇北の宮を勧請して、社殿(北宮神社)を建てる 武朝、良成親王らとともに今川・大友軍を詫麻原で破る足利義満室町第に移る
1379天授5今川軍、肥後に入り、板井原に陣し守山城を攻める
1380天授6今川軍、台(水島)城を落とす 貞継、肥後守護となる
1381弘和元菊池本城、足利方の今川軍に攻められ落城する
1383弘和3懐良親王亡くなる
1384元中元武朝「申状」を吉野朝廷に差し出す『群書類従』
1387元中4合志鑑峯、橋田寺を修復する『肥後国誌』
1392元中9武朝、菊池に帰り、改めて肥後守護となる南北朝が合一する


室町時代



菊池一族歴史年表(室町時代)
西暦年号菊池のうごき【 】内の数字は菊池一族の代を示す日本のうごき
1407応永14武朝死去[18]兼朝が家督を継ぐ1397義満金閣寺建立
1419応永26蒙古・朝鮮軍が対馬を侵す 兼朝ら敵を撃退する
1431永享3馬か岳(福岡)合戦後、兼朝[19]持朝に家督を譲る
1432永享4持朝、筑後守護職となる
1446文安3持朝死去(兼朝死後2年目)[20]為邦が家督を継ぐ1441 嘉吉の乱
1449宝徳元このころ菊池の文教盛んになる
1452享徳元為邦、竺菴仲尖和尚を招き、江月山玉祥寺を建立する
この頃、玉祥寺このみやおどりが始められると伝わる

1456康正2合志隆門が飛熊に城館を築き移住する『合志川芥』
この頃、住吉日吉神社雨乞太鼓が始められると伝わる

1462寛正3足利義政、筑後守護職の半分を大友政親に与える
1465寛正6為邦、筑後領奪回のため大友と高良山で戦い敗れる
1466文正元為邦、家督を[21]重朝に譲り、重朝肥後守護となる1467 応仁の乱起こる
1472文明4重朝、隈府に孔子堂を建てる
1477文明9重朝、桂庵禅師を招き釈奠の礼を行う。
住吉日吉神社の坂本左近が合志氏と争い(紅花事件)社殿で自刃する『合志川芥』・『肥後国誌』
応仁の乱終息
1481文明13重朝、菊池で連歌一万句の会を催す。
1484文明16合志重隆が住吉日吉神社を北住吉(現在地)に再建、また南住吉古閑に池の上城を築き移る『合志川芥』
1485文明17重朝、相良為続と矢部・幕平で戦って敗れる
1493明応2重朝死去、「22」武運が家督を継ぐ
阿佐古武貞が福本聖母八幡宮を再建し、隈部忠直が棟札を記す『肥後国誌』
このころ合志隆峯が天台宗僧光玄院清正坊を斬り、崇ありとして御霊社前田神社を建立する『合志川芥』
1489 銀閣寺建立
1501文亀元武運、宇土為光に叛かれ、島原にのがれる
1503文亀3武運、能運と改名する
能運、城・隈部の助けをかりて為光を破り、菊池に帰る

1504永正元能運死去、菊池家正統絶え、[23]政隆 跡を継ぐ
合志隆岑、住吉から竹迫に移り合志郡を支配『合志川芥』

1505永正2政隆家臣に追われ阿蘇惟長が肥後守護となり、菊池武経と称す
1509永正6菊池政隆が菊池武経と久米原で戦い敗れて、安国寺で自刃する『合志川芥』・『肥後国誌』
1511永正8詫磨武包が菊池氏を継いで肥後守護となる
武包、大友氏に追われて菊池を去る
この頃大友氏勢力拡大

永正中竹迫氏の豊後移住に伴い、合志隆岑が竹迫城に入り、合志郡の地頭職を継ぐ『合志川芥』・『肥後国誌』
1515永正12焼失した安国寺が再建される
1520永正17大友重治(義宗)、菊池義武と称して肥後守護となる
このころ、怒留湯氏が打越に入る


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