菊池一族 the Kikuchi Clan

09他氏の介入

2024年05月20日

政隆のイラスト 能運没後、遺命により23代当主の座に就いたのは、わずか14歳の政隆(まさたか。祖父為安(ためやす)は為邦の弟、父重安は重朝のいとこで、ともに一族を助けて戦死しています。また母も一族の娘という、菊池氏の血を濃く引く少年です。能運は、直系ではないとはいえ、このサラブレッドの政隆に菊池本家の運命を託したのです。

「向後のことは、一族の血を引くお前に託した...一族を頼んだぞ!」

この頃、九州で肥後を脅かす存在となったのが大友と島津の2大勢力です。菊池氏を配下に組み入れたい大友氏は、阿蘇惟長(これなが)を扇動し政隆を排除しようとたくらみます。惟長は、自らが肥後守護となれるのであればと、その策に乗りました。相次ぐ内紛や重朝・能運の死により勢力は衰退、さらには政隆が若年であることは、阿蘇氏が菊池氏をみくびり、つけ入るには十分だったのです。

一部の家臣の反対はあったものの惟長の策にはまった一族は、「当主政隆は愚かで、将帥(しょうすい)としての器量がない」として廃嫡を決め、1505(永正2)年12月3日、「惟長殿をお迎えする由を申し定め、今後は二心なく相つとめもうすべきこと」、菊池家臣84名が連判誓書を阿蘇家に送りました。

まんまと菊池家当主と肥後守護の座を手に入れた惟長は、すぐさま隈府へ入り名を菊池武経(たけつね)と改めました。

守護の座を奪われ隈府を追われ、復興の時を待つ政隆。そこへ続々と、旧臣たちが集まり始めました。政隆のもとに馳せ参じたのは、城政元(まさもと)・隈部鎮治(しげはる)・宗隆盛(そうたかもり)・山鹿重詮(やまがしげあき)・広瀬忠峯(ひろせただみね)などの面々。これを恐れた武経は、阿蘇家と大友親治(ちかはる)と政隆討伐の策を練ります。

1509(永正6)年8月、大友親治の命を受けた朽網親光(くたみちかみつ)軍と政隆軍が臼間荘桜馬場(南関町)で激突。戦いは大友軍の大勝利で終わり、捕らわれた政隆は阿蘇氏の本拠地矢部へと護送されていきました。その途中、旧臣玉屋貞親(たまやさだちか)が護送団を急襲、首尾よく政隆奪還を果たし、久米安国寺(くめあんこくじ)に入りました。

ついに武経は守山城を出陣、久米原で両軍入り乱れての激戦となり政元・鎮治・隆盛らは討ち死に、政隆は再び安国寺に入り自刃、多くの家臣もともに果てました。14歳で家督を継いだ政隆は、一族の離反や阿蘇家の介入などに悩ませられ続け、19歳という若さでその命を散らすこととなったのです。


政隆墓の写真  

政隆墓

 


 


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