菊池一族 the Kikuchi Clan

05針摺原の戦い

2023年07月07日

懐良親王菊池入城の翌年にあたる1349(正平4)年、足利尊氏の庶子であり、尊氏の弟・直義(ただよし)の養子となった足利直冬(ただふゆ)が肥後の川尻に到着しました。この頃、中央では尊氏派と直義派に分かれての勢力争い(観応の擾乱)が起こっており、直冬は養父である直義側についていました。


三者鼎立のイラスト画像この争いは九州にも波及します。幕府の組織下で尊氏に忠誠を示す九州探題・一色範氏(いっしきのりうじ)に対し、九州入りした直冬を奉じて直義派についたのが、筑前、豊前、対馬の守護であった少弐頼尚(しょうによりひさ)でした。九州のリーダーでありたい頼尚にとって、幕府から派遣されてきた九州探題は正に目の上のたんこぶ。直冬の下向は渡りに船だったことでしょう。


こうして北朝側が二つの派閥に分かれたことで、九州には三つ巴の争乱の時代が訪れました。一色範氏率いる幕府方、足利直冬・少弐頼尚の佐殿(すけどの)方、そして懐良親王と武光が率いる征西府です。


幕府方と佐殿方は激しく争いあっていたため、時にどちらの勢力からも征西府の助力が求められました。征西府にとっては有利な展開です。

 


 

少弐頼尚のイラスト画像1353(正平8)年、筑後の古浦城で一色範氏の子・直氏に追い詰められた少弐頼尚は、征西府に救援を求めました。頼尚の父・貞経は、武光にとって父の仇という因縁の相手でしたが、武光はこれを受け入れます。


「いずれ必ずこの貸しが意味を持つ時がやってくる。感情に流されて好機を逃すのは、愚か者ののやることだ」


征西府は一色軍を撃破し、少弐頼尚の救出に成功しました。


大きな危機を武光の助力によって切り抜けた頼尚は、熊野権現に誓う起請文を書きました。

 


 

「これより後、子孫七代に至るまで、菊池に弓引くべからず」


熊野権現への誓いを破ると、神の使いである烏が一羽亡くなり、本人も血を吐き地獄に堕ちると古くから信じられてきました。因縁の相手である頼尚が書いたこの起請文が、後の武光にとってまさに大きな意味を持つことになるのでした。


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