1355(正平10)年、征西府は九州探題一色範氏を追い詰め、九州から追い出すことに成功します。しかしそれは、決して九州に平安をもたらすものではなく、結果的により大きな争乱を生むきっかけとなりました。
1359(正平14)年、少弐頼尚は大友軍と共に挟み撃ちにして打撃を与えるため、菊池軍を筑前・筑後方面へと誘い出します。その企みに気付いていながら、武光は敢えて誘いに乗る形で軍を投じました。南朝軍4万騎に対し北朝軍は6万騎もの軍勢が集まったと言われ、数の上では圧倒的に不利な状況であったと伝わっています。7月19日、武光が筑後川を渡河すると頼尚は軍を引き、大保に陣を敷きます。湿地に囲まれたこの地域は非常に攻めにくく、互いに睨み合ったまま半月が過ぎました。
この状況を打開するため、武光は一つの策を打ち出します。
「少弐軍の兵たちよ、この起請文をとくと見よ!これはかつてお前たちの大将が熊野権現に誓ったものだ。『子孫七代に至るまで、菊池に弓引くべからず』。神への誓いをないがしろにし、我らに弓引くお前たちに如何なる罰が下されるか、よくよく思い知るがいい!」
武光が敵陣を前に掲げさせたのは、先の戦いで頼尚が捧げた、あの熊野権現への起請文でした。神罰を恐れた少弐軍の兵たちは、たちまち浮足立ちます。現在よりも神仏の影響が遥かに大きい世の中にあって、主君の不義はひどく兵たちを動揺させたのです。
一方、征西府軍の兵たちは、これを見て大いに士気を上げました。
「義は我らにあり!」
いよいよ、決戦の時が間近に迫っていました。
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