菊池一族 the Kikuchi Clan

01豊田十郎

2023年07月07日

豊田十郎(菊池武光)のイラスト画像武重の没後、武士(たけひと)が次代の当主に抜擢され、重い苦悩のただなかにあった頃、菊池から遥か南、豊田荘と呼ばれた地域(今の熊本市城南町)に豊田十郎と名乗る一人の若者の姿がありました。


年の頃は二十代半ば。菊池家の庶子として豊田荘の地頭職に就き、本領から遠く離れたこの地で北朝勢との小競り合いに明け暮れていたこの若者こそ、12代武時の九男、後の菊池武光でした。


武光の幼少期については、ほとんど記録は残っていませんが、実は武時が討死した博多合戦の記述の中に武光の姿を見ることが出来ます。

 


 

武時は博多の鎮西探題を襲撃する際、まだ元服前の武光もその軍勢に伴って出陣していたのです。少弐・大友の裏切りを経て、死を覚悟した討入の直前、武時は14歳の武光を博多の聖福寺という寺に預け、追っ手から逃れさせました。


阿蘇惟澄のイラスト画像父の無念を抱えたまま武光は帰郷し、そして豊田荘で徐々に力をつけていました。この頃武光には、菊池家の外に支援者がおりました。豊田荘の隣、甲佐大宮司社領守富庄を治める阿蘇(恵良)惟澄(これずみ)です。惟澄は北朝方と南朝方の間で揺れ動く阿蘇家の中で一貫して南朝方として戦ってきました。庶子でありながら当主の惟時に対抗するだけの実力を持ち、武重や武敏らと共に各地で奮戦してきた実績を持ちます。


合戦の記録として初めて武光が登場する田口城の戦いは、武光がこの惟澄から協力を求められる形で火蓋が切られました。1343(興国4)年、武光24歳の時のことです。

 


 

「おのれ、このような若造にしてやられるとは……!お主、何奴じゃ!?」


「菊池一門、先々代惣領武時が子、豊田十郎。だがこの名はまだ覚えなくていい。いずれ忘れられない名を聞かせてやる」


北朝勢の河尻幸俊をはじめ、少弐氏配下の対馬、大友、饗庭(あえば)らも駆逐して、武光は一族の中でも一躍頭角を現し始めたのです。


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