菊池一族 the Kikuchi Clan

05 承久の乱~8代能隆

2024年01月29日

8代能隆のイラスト 能隆(サイト内リンク)が8代当主となったのは、養和内乱での降伏後、平氏方としての戦いを余儀なくされ、結果として「源氏に楯突いた」一族として、多くの所領を没収される憂き目に遭い、不遇をかこっていた時代でした。鎌倉の掲げる「武士の世」は、あくまで「坂東武者の世」だったのです。

その頃、京都の朝廷内では、北条氏による独裁色を強める鎌倉幕府に対し、反幕府運動が活発化していました。建久7(1196)年11月、土御門通親らの計略により親幕派の公家が一掃され、にわかに緊張が高まります。その翌年、土御門天皇の即位により後鳥羽上皇の院政が始まり、反幕の気運はいや増しに強くなっていきました。

そしてついに承久3(1221)年5月、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を滅ぼさんと、諸国の勤王の兵を招集、北条義時追討の院宣を下しました。承久の乱の始まりです。

「鎌倉に奪われた土地を奪還するのは今ぞ! いざ戦わん!!」

院宣を受けた能隆ら一族は、後鳥羽上皇につき参戦することを決意。能隆の叔父2人(家隆と隆元か)は、京都大番役としてすでに上京しており、御家人の務めとして皇居の護衛や京都警備の任に就いていました。このような勤務内容から、御家人は上皇に近づく機会が多く、ともすると幕府の京都守護の命に従わず、院宣に従うことが多くありました。

上皇は、在京の御家人を大番役や検非違使に任じるなど名誉ある職に取り立て、自分の手足となって働く親衛軍を編成していました。在京御家人は、幕府の御家人でありながら上皇の親衛軍という2重の性格を有していたのです。

菊池氏もやはり在京御家人として、上皇方の親衛軍となっていました。古くから朝廷の荘園管理を請け負うことで勢力を伸ばしてきたという背景を持ち、反対に幕府からは多くの所領を没収されるなど冷遇されてきた菊池一族にとって、上皇側として戦うことは当然の流れと言えました。

しかし、残念なことに一族の思惑ははずれ、戦いはわずか1か月のうちに、幕府方の圧倒的勝利に終わりました。結果、本領数か所、一族の領地も没収されるという、更なる憂き目に遭いました。

この後、菊池一族が表舞台に登場するのは、10代武房(サイト内リンク)を待つこととなります。


  


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