菊池一族 the Kikuchi Clan

01 菊池へ~初代則隆~

2024年01月29日

初代則隆のイラスト今から約950年前の延久2(1070)年、一人の府官が菊池の地を踏みました。菊池一族の初代とされる藤原則隆(サイト内リンク)その人です。

則隆の父政則は、大宰府(古代の九州の都)の「大宰大監」と呼ばれる高級官僚で、九州各地に大規模な所領を有していました。我が国は白村江の戦い(663年)の敗戦後、異国からの侵攻を防ぎ大宰府を守るため水城や大野城、基肄城を築きました。

太宰府天満宮領赤星荘園の荘官として、この菊池へやってきた則隆。この地方の最有力者と目され、荘園管理の適任者として任命されたのです。

則隆が足を踏み入れた深川には、清水がこんこんと湧き、和菊が咲き乱れる美しい池がありました。これが菊池の名のもとになったとされている「菊之池」です。

菊池の風土をいたく気に入り、ここに居を構えることに決めた則隆は、「菊之城(サイト内リンク)」を築きました。そして土地の名前を取って、「菊池」と名乗ることとしたのです。

「おう、なんと清らかで美味しい水じゃ、この地が気に入ったぞ。」

「これからは菊池と名乗り、民が幸せに暮らせるように力を尽くそう!」

荘民が安心して農事に励み暮らせるように、荘園経営に熱意をもって取り組みます。土地に根を下ろし一族が栄えていくためには、そこに暮らす人々の安心を保証し信頼を得ていくことが必須。一円の環境整備や住居の増設はもちろんのこと、信仰の拠りどころとなる鎮守社の勧進、寺院の建立などに力を入れ人心の掌握に努めたのです。則隆由来と伝わる社寺は、赤星の早鷹天神、深川の佐保川八幡宮、神来の貴船神社、旭志の円通寺など、現在の菊池市内に6カ所、市外広範囲に15カ所、なんと全21カ所にものぼります。民とともにあり苦楽を分かち合う、こうして荘園の治安を維持し荘民の心を掴んでいきました。

さて、これほどたくさんの社寺の造営や荘園管理に必要となる莫大な財源は、どこからもたらされたのでしょうか。

今でも菊池の旧家に多量に残る宋銭は、則隆や2代経隆(サイト内リンク)が活躍した時代のもの。このようなことから海外との貿易によってもたらされた利益が、大きな割合を占めていたと推察されています。交易によってもたらされた利益を、民の生活向上のため、ひいては安定的な荘園経営のために使ったと考えられるのです。

深川は、菊池河畔に面した平坦な沖積平野のど真ん中。水運の利に着目した則隆は、この地が所領支配の面でも交易の面でも最適だと考え、この地に本拠地を置き定住することに決めたのでしょう。この館を中心に深川の港などが整備され、一族の繁栄を支えていたのです。

墓所は、1818(文化15)年に菊之城跡から西へ約200メートルのところに造られました。今でも地元の人々の手で、大切に祀られ続けています。


  則隆の墓の写真   


 


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