延久2年(1070)、大宰府天満宮領の赤星荘(荘園)の荘官として菊池に赴任し、深川に居館を構え、子の政隆を七城(西郷)に、保隆を鹿本(分田)に配し菊池川流域支配の基礎をつくっていく。深川の佐保川八幡宮や神来(おとど)の貴船神社ほか、旭志弁利(岩本)の円通寺など、流域の寺社勧請も数多くおこなっている。
以前は血筋として藤原氏の系であるとされていたが、近年は地元の土豪(有力者)が大宰府長官職にある藤原氏に仕えることによってその姓を賜った、という見方が研究上一般的である。菊池の姓も以前から名乗っていたと考えられる。
墓所は菊池市深川。文化15年(1818)に造られた。墓の下には古墳の巨石があるといわれ、明治3年(1870)に鎮座した菊池神社の飛び地境内地とされている。