東征失敗
征西府(せいせいふ)の九州制覇を受けて吉野の朝廷も大いに沸き立ち、懐良親王が下向した時からの念願である東上、つまり大軍勢を率いての京上りが期待されました。全国的には圧倒的な北朝有利の中、征西府の九州制覇は南朝唯一とも言える大快挙だったのです。
武光と懐良親王は、九州南朝勢の総力を挙げ、7万余騎とも伝わる軍勢を率いて豊後(大分)から海路吉野を目指しました。しかし、肥前(佐賀)・肥後の水軍や倭寇(わこう)とは連携していた征西府も、瀬戸内海方面の制海権は掌握できておらず、出航後まもなく大敗します。この敗戦で南朝勢が受けた打撃は大きく、征西府衰退の大きなきっかけとなりました。
大宰府陥落
征西府十余年の春に終止符を打ったのは、室町幕府きっての名将・今川了俊(いまがわりょうしゅん)でした。文武の道を修練し、武略に優れた智将で用意周到。九州探題に任命されてから九州入りするまで10ヶ月もの月日をかけて征西府の攻略計画をじっくり練り上げました。
息子の今川義範(よしのり)を豊後の高崎山に、弟の今川仲秋(なかあき)を肥前に差し向け、自身は中国地方5カ国の連合軍を指揮し、1372(文中元)年2月10日、宗像から博多に侵入しました。じわじわと三方から攻め立て、8月12日、ついに大宰府は占領され、征西府は高良山(こうらさん)に後退することになったのです。
武光の死
武光の死は、征西府の発表ではこの1年3ヵ月後、1373(文中2)年11月16日とされていますが、1372年1月の高崎山包囲を解いて以降、彼の名前は史料の中から忽然と姿を消しています。このため、大宰府陥落の際に死亡したとも、既にその前の時点で亡くなっていたとも、様々な説が伝わっています。武光の存在はあまりに大きく、その死は徹底的に隠されたのでしょう。現在に至っても、真相は謎に包まれたままなのです。