菊池一族 the Kikuchi Clan

新星、現る。

2019年05月27日

豊田十郎

1319(元応元)年、武光は12代武時の庶子(側室の子)として生まれました。16人の兄弟とともに成長し、14歳のとき、父武時最後の戦である博多合戦にも同行しています。死を覚悟した討ち入りの直前、武時は武光を博多の聖福寺に預け、避難させました。父の無念を胸に抱きながら肥後に帰った武光は、その後豊田荘(熊本市城南町)の小領主になって豊田十郎と名乗りました。

この地で武光は、大きな影響を受けることになる人物と出会います。豊田荘の隣、甲佐の守富荘を治めていた阿蘇家の庶子、恵良惟澄(えらこれずみ)です。当時の阿蘇家は家内で北朝方と南朝方に別れて争っていたのですが、惟澄は南朝方として、庶子でありながら阿蘇大宮司職の最有力候補という実力の持ち主でした。若い武光は10歳年長の惟澄とともに、度々出陣して北朝勢を倒しています。


本城奪還

武光のもとに深川の菊池本城(菊之城)が敵の手に落ちたという知らせが届いたのは、1345(興国6)年のことでした。当時の菊池は13代武重が34歳の若さで病死した後、正妻の子である弟の武士(たけひと)が跡を継いでいました。しかし時は戦乱の真っ只中であり、軍事的にも政治的にも未成熟な武士にとって、緊急事態とも呼べる状況での判断は非常に難しく、効果的な打開策を打ち出すことも出来ないまま、北朝方の合志幸隆(こうしゆきたか)に城を奪われてしまったのです。

 一族にとっての絶体絶命のピンチを、武光は大きなチャンスに変えました。自身の手勢と惟澄の助けを借りて、豊田荘から一気に本城へと攻め込みます。本城を取り返すのにかけた日数は6日間。誰もが武光の実力を認めざるを得ない状況を作り出しました。


家督継承

庶子である武光は、一族当主の候補にすら入っていませんでしたが、むしろ菊池本領を離れていたおかげで一族内部の後継者争いに巻き込まれることもなく、豊田荘で蓄えていた力を絶好のタイミングで発揮できたのでしょう。実力で菊池の表舞台に躍り出た武光はこの後、15代当主として、一族の黄金時代を築き上げていくのです。

菊之城奪還

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