菊池一族 the Kikuchi Clan

弘安の役

2018年06月26日

弘安の役の際の元軍の進路と九州図1281(弘安4)年、元軍は再び九州へと攻め寄せました。

『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が6月8日、生の松原にて武房と再会したことを伝えています。生の松原には現在も当時の防塁が残されていますが、築造から肥後の御家人たちが担当したもので、季長がここを通った時、武房は一族郎党とともにその上を固めていました。防塁の上にずらりと居並ぶ甲冑姿の一団は実に壮観で、季長にとって彼らが如何に煌々しく見えていたのかを推し量ることができます。『人々多しと言えども菊池の二郎武房、文永の合戦に名を上げし』とあるように、前回の戦の英雄として憧れの眼差しで武房を見ているのです。この時も季長は武房に証人となってもらうことを依頼し、戦場に駆けていきました。

今回元軍は、東路軍と江南軍の二手に分かれており、この時点では東路軍のみが九州に到着していました。志賀島に足がかりを作ったものの疫病も流行り、壱岐を経て7月下旬、ようやく江南軍と合体して肥前の鷹島に至りました。その船団は4千隻以上、14万人の大軍に膨れ上がりました。ところが7月30日の夜、この大船団を再び波乱が襲います。海上の元軍に台風が直撃したのです。

  


 

戦意を失い、引き上げにかかった元軍に対し、日本軍は追撃します。武房も勇猛果敢に戦いますが、『蒙古襲来絵詞』にはもう一人、菊池一族と思われる人物が描かれています。季長が、乗る船が来なくて困っている時に乗船の便宜を図ってくれた『隆政』と記された人物がいるのですが、状況から推測するにこれは武房の叔父にあたる西郷隆政のことではないかと考えられています。

こうして2度にわたる元軍の侵攻はいずれも嵐に阻まれ、日本は侵略を免れることになったのでした。

現存する生の松原の防塁(福岡市) 

石碑の画像。「史跡 元寇防塁」とある 福岡市の生の松原海岸に復元された元寇防塁の写真。

  


 


次の記事

恩賞問題とその後の菊池一族(サイト内リンク)

この記事へのお問合せ

担当部署:菊池市役所 経済部 観光振興課 菊池プロモーション係

電話番号:0968-25-7223