守山城が陥落し戦況が悪化、南朝方には徐々に厭戦ムードが漂い始め、南北朝和解の兆しが見え始めます。そのような中にあり、あくまで南朝方として徹底抗戦を主張する武朝と良成親王は、次第に孤立を深めていくこととなりました。
一族の中にも、武朝排斥を企てる者が現れます。この一派は、武朝と親王の失脚を狙って南朝朝廷に二人を貶める訴えを起こします。吉野にある朝廷は、実情を知るために勅使を遣わしました。
「なんたることか、我が一族は一点の曇りなく、吉野に忠誠を尽くすものである!」
これを受けて、1384(元中元)年、武朝が身の潔白を主張する文書をしたためて、朝廷へ提出したのが「菊池武朝申状(もうしじょう)」です。菊池家の起源や家系を記し、歴代の事績を書き連ね、一族が一貫して朝廷へ忠節を尽くしてきたことを述べることにより、ざん言に対し反論しています。江戸時代の書物『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』に、その文章が収められていますが、残念ながら武朝自筆の原本は見つかっていません。
時に武朝21歳。若き当主が一族の誇りを守るために、自らの手で全霊を傾けて書き綴ったこの申状は、図らずも貴重な史料として、今も私たちに一族の歴史を伝え続けているのです。