勝敗を分け合いながら合戦を繰り返す南朝軍と北朝軍。いよいよ決戦の時が近づいていました。
水島の戦いの勝利で息を吹き返した武朝は、1376(天授2)年、良成親王や盟友阿蘇惟武(これたけ)らとともに肥前(佐賀県)へと進軍しました。翌年正月、今川了俊に協力した大友親世・大内義弘の連合軍と蜷打(になうち)で大激戦を展開しますが惨敗。後見役の武安(武光の甥)や武義(武光の弟)、さらには惟武もが討ち死に、武朝と親王は命からがら菊池へと敗走します。勝利を収めた了俊の軍勢は、勢いそのまま二人を追って肥後へと攻め入りました。
1378(天授4)年9月18日、了俊・仲秋(なかあき:了俊弟で養子)軍は、藤崎台(熊本市)に布陣。この戦いでは、今川軍は直接菊池には攻め込まず、実に1年半を費やして山鹿から今の熊本市へ入るという作戦でした。そこへ了俊の誘いに応じた大内・大友の軍も参戦、北朝軍は大軍をもって武朝率いる南朝軍へと対します。
9月29日早朝。託麻原(たくまばる:熊本市水前寺競技場付近)を舞台に、ついに決戦の火ぶたが切られました。16歳の若き闘将武朝率いる南朝軍は数に押され、戦いは北朝軍有利に進みます。多勢に無勢、南朝軍は多くの戦死者を出し、とうとう武朝自身も傷を負ってしまいました。
「我こそは、征西将軍良成なり。我が旗印のもと、みなの者、我に続け!!」
この時、健軍宮から颯爽と登場したのは、後征西将軍良成親王その人でした。まだ20歳にも満たない親王が、自ら陣頭に馬を進めて戦います。その雄姿に奮い立たないものはなく、一気に士気を高めた南朝軍は、我先にと北朝軍へと襲いかかりました。そしてついには、今川軍を筑後へと退却させたのです。南朝方最後ともいえる、若き二人が収めた華々しい勝利でした。
「天授勤王戦跡」の碑。塔の脇のレリーフには、武朝と良成親王らの奮戦の様子が彫られています。(水前寺競技場)