菊池一族 the Kikuchi Clan

03 養和内乱

2024年01月29日

治承4(1180)年、平氏に服従していた九州の主だった領主たちが、反旗を翻し挙兵しました。養和2(1182)年にかけて戦われた、養和内乱の始まりです。その中心にいたのが、6代隆直でした。

平氏による九州武士団の家人化、所領拡大を苦々しく思っていた隆直。菊池氏の当主として、父祖伝来の所領を守り抜くことは当然の責務でした。肥後国内の多大な所領を脅かす平氏や原田氏の存在は、隆直にとっては不快そのものでしかなかったのです。

これに立ちはだかったのは、筑前の原田種直。ただちに九州の平氏恩顧の者たちを率い、平貞能とともに隆直ら反乱軍に挑みました。

この頃、『日本凶荒史考』によると、治承4年、養和元(1181)年、寿永元(1182:養和2年5月改元)年と足掛け3年に及ぶ大飢饉が全国的に続いていました。九州も例外ではなく、寿永元年は肥後も大飢饉で農民の困窮は並々ならぬものとなっていました。

それに追い打ちをかけるように、政権側は強制的に米を取り立て始めたのです。『源平盛衰記』に、国庁官、大宰府の使、貞能の使が、それぞれ一人につき80人余を引き連れて要求、合わせて米10万石余りを取り立てたと記されるほど、その徴発は苛烈を極めました。当然、武士も農民も皆が食糧に窮していました。

この窮状は、隆直の防戦を一層困難なものとしました。戦いを続けることは、領民を苦しめ続けることとなるのです。

「民の困窮は極まっておる。このまま戦を続けるのは、ますます皆を苦しめること必定。」

「本意ではないが、兵を退くしかないのか…」

悩む隆直に決断を迫るかのように養和2年2月には深川の館が大火に見舞われます。領民の苦しみを見るに忍びず、4月、隆直は心ならずも降伏する道を選ばざるを得なくなったのです。こうして、内乱は幕を閉じました。

寿永2(1183)年、貞能は、原田種臣や降伏し再び平氏方となった隆直らを引き連れ京都に凱旋しました。

これ以後、一族は平氏方に付くことを余儀なくされます。壇ノ浦の戦いで源義経率いる源氏方に敗北、その後、源氏が政権を掌握すると、菊池氏は鎌倉幕府のもとで不遇の時代が続くこととなりました。

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