菊池一族 the Kikuchi Clan

12代 菊池武時

2016年09月11日

逆境に屈することなく、一族の未来のために命を賭した一徹者。菊池武時。(1292-1333)12代当主。10代 菊池武房(サイト内リンク)の孫で、11代時隆の弟にあたります。出家し、寂阿という法名を名乗りました。

1333(元弘3)年、鎌倉幕府打倒を掲げた後醍醐天皇に応え、九州における幕府の出先機関である「鎮西探題」(福岡市博多区)を襲撃(サイト内リンク)しました。

事前に、幕府に反感を抱いている少弐氏、大友氏と共謀して討入に臨んだのですが、直前になって裏切られ、援軍が望めないなか、菊池・阿蘇勢わずか70名あまりで作戦を決行しました。多勢に無勢の状況下で、武時は自軍の敗退を覚悟し、息子の武重(サイト内リンク)(後の13代)、武光(サイト内リンク)(後の15代)を呼び出して撤退を命じており、この場面は「袖ヶ浦の別れ」として語り継がれています。その後、探題館において壮絶な戦いを繰り広げるのですが、寝返った少弐・大友軍に背後を突かれ、突入した武時以下、全員が討死しました。しかしこの忠節ぶりは後に楠木正成によって高く評価され、後醍醐天皇への進言を得て、13代武重が肥後守に任命(サイト内リンク)されるという形で報われました。

この時、「首が切られたのに気がつかないまま数キロ走り抜けた」という伝説が残っていて、首が落ちたとされる福岡市中央区の護国神社付近に首塚、首を失った胴が倒れたとされる城南区の地下鉄七隈駅そばに胴塚として、2つの墓が残っています。現在は、それぞれの場所で菊池霊社、菊池神社の主祭神として祀られています。

 


 

菊池武時討死から650年ほどが経過した1978年。福岡市営地下鉄の祇園駅を建設するための作業中、大量の人骨が発見されました。当時は大変な話題となってマスコミを賑わせたこの人骨は、古文書による記述等とも合致するため、武時率いる菊池一族の遺骨と推定されました。現在、これらの人骨は、菊池神社歴史館に祀られています。

また武時は、南北朝の動乱期を支える16人もの子ども達をもうけたことでも知られています。13代武重、14代武士、15代武光をはじめ、九州一円を制覇するまでに至った菊池一族の力の源は、武時の息子達を中心とした結束力にあったのかもしれません。


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