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菊池武朝の墓

十七代 菊池武朝(1363年〜1407年) 武政の長子で、幼名は賀ヶ丸。1374年、武政の死去により12歳の若さで家督を継承し、懐良親王の甥である良成親王を新たな征西将軍として迎える。 1375年、菊池十八外城の一つである台(うてな)城での水島の戦いを...

菊池武朝の墓

「十七代 菊池武朝(1363年〜1407年)」詳細ページへ移動します

十七代 菊池武朝(1363年〜1407年)

武政の長子で、幼名は賀ヶ丸。1374年、武政の死去により12歳の若さで家督を継承し、懐良親王の甥である良成親王を新たな征西将軍として迎える。 1375年、菊池十八外城の一つである台(うてな)城での水島の戦いを...

菊池兼朝の墓

十八代 菊池兼朝(1383年〜1444年) 武朝の嫡子で、1419年に起こった応永の外寇で九州探題に従い活躍があったが、のちに子の持朝との不仲により1431年、家督を譲り隠居。 墓所は七城町岡田の正善寺の堂宇横にある。また、死去は芦北佐敷と...

菊池兼朝の墓

「十八代 菊池兼朝(1383年〜1444年)」詳細ページへ移動します

十八代 菊池兼朝(1383年〜1444年)

武朝の嫡子で、1419年に起こった応永の外寇で九州探題に従い活躍があったが、のちに子の持朝との不仲により1431年、家督を譲り隠居。 墓所は七城町岡田の正善寺の堂宇横にある。また、死去は芦北佐敷と...

菊池持朝の墓

十九代 菊池持朝(1409年〜1446年) 兼朝の嫡子で、幕府より筑後守護に任ぜられ勢力の回復に努めたが、一族内の争いなどもあり成果がないまま死去。 墓所は片角の光善寺にある。 菊池市片角、光善寺の墓地内にある持朝の墓。

菊池持朝の墓

「十九代 菊池持朝(1409年〜1446年)」詳細ページへ移動します

十九代 菊池持朝(1409年〜1446年)

兼朝の嫡子で、幕府より筑後守護に任ぜられ勢力の回復に努めたが、一族内の争いなどもあり成果がないまま死去。 墓所は片角の光善寺にある。 菊池市片角、光善寺の墓地内にある持朝の墓。

為邦・重朝の墓(玉祥寺)

二十代 菊池為邦(1430年〜1488年) 持朝の嫡子。父持朝に引き続き筑後守護として大友氏と領有権を争ったが、これに敗れた。 次男の武邦が豊福(熊本市南区城南町)で反乱を起こしたため、嫡子の重朝を差し向けて鎮圧するが、一族の弱体化が目に見...

為邦・重朝の墓(玉祥寺)

「二十代 菊池為邦(1430年〜1488年)」詳細ページへ移動します

二十代 菊池為邦(1430年〜1488年)

持朝の嫡子。父持朝に引き続き筑後守護として大友氏と領有権を争ったが、これに敗れた。 次男の武邦が豊福(熊本市南区城南町)で反乱を起こしたため、嫡子の重朝を差し向けて鎮圧するが、一族の弱体化が目に見...

孔子堂跡碑

二十一代 菊池重朝(1449年〜1493年) 為邦の嫡子。応仁の乱の機に乗じて筑後方面への勢力拡大を図るが、弟である武邦の反乱などもあり失敗に終わる。 一方で、1477年には桂庵禅師を招き、孔子堂で釈奠の礼をおこない、また1481年には自身や...

孔子堂跡碑

「二十一代 菊池重朝(1449年〜1493年)」詳細ページへ移動します

二十一代 菊池重朝(1449年〜1493年)

為邦の嫡子。応仁の乱の機に乗じて筑後方面への勢力拡大を図るが、弟である武邦の反乱などもあり失敗に終わる。 一方で、1477年には桂庵禅師を招き、孔子堂で釈奠の礼をおこない、また1481年には自身や...

菊池能運の墓

二十二代 菊池能運(1482年〜1504年) 重朝の嫡子。はじめは武運と名乗っていたが、「不運」につながるとして改名したとされる。隈部氏をはじめとする家臣団の離反や、大叔父の宇土為光(二十代為邦の弟)の反乱などがあり、一時期は守山城も奪われ島...

菊池能運の墓

「二十二代 菊池能運(1482年〜1504年)」詳細ページへ移動します

二十二代 菊池能運(1482年〜1504年)

重朝の嫡子。はじめは武運と名乗っていたが、「不運」につながるとして改名したとされる。隈部氏をはじめとする家臣団の離反や、大叔父の宇土為光(二十代為邦の弟)の反乱などがあり、一時期は守山城も奪われ島...

菊池政隆の墓

二十三代 菊池政隆(1491年〜1509年) 二十代為邦の弟である為安の孫で、二十二代能運からすると「はとこ」にあたる。 能運の遺言により家督を継承するが、家臣団の反乱や阿蘇氏などの介入があり、久米原の戦いにおいて阿蘇惟長(菊池武経)との争い...

菊池政隆の墓

「二十三代 菊池政隆(1491年〜1509年)」詳細ページへ移動します

二十三代 菊池政隆(1491年〜1509年)

二十代為邦の弟である為安の孫で、二十二代能運からすると「はとこ」にあたる。 能運の遺言により家督を継承するが、家臣団の反乱や阿蘇氏などの介入があり、久米原の戦いにおいて阿蘇惟長(菊池武経)との争い...

二十四代 菊池武包(生年不詳〜1532年)の画像は現在準備中です

二十四代 菊池武包(生年不詳〜1532年) 肥前菊池氏である武澄(十三代武重の弟)の来孫(5代あと)にあたる。 阿蘇惟長(菊池武経)が家督を放棄し阿蘇家に戻ったあと、大友重治(菊池義武)が元服するまでの間家督をつなぐため、家臣団などの取り決...

二十四代 菊池武包(生年不詳〜1532年)の画像は現在準備中です

「二十四代 菊池武包(生年不詳〜1532年)」詳細ページへ移動します

二十四代 菊池武包(生年不詳〜1532年)

肥前菊池氏である武澄(十三代武重の弟)の来孫(5代あと)にあたる。 阿蘇惟長(菊池武経)が家督を放棄し阿蘇家に戻ったあと、大友重治(菊池義武)が元服するまでの間家督をつなぐため、家臣団などの取り決...

(二十五代) 菊池義武(1505年〜1554年)の画像は現在準備中です

(二十五代) 菊池義武(1505年〜1554年) 大友重治といい、豊後国の戦国大名である大友義鑑(宗麟の父)の弟である。 十九代持朝の孫(木野)親則が娘を大友親治に嫁がせており、その娘がのちの当主義長(義鑑、重治の父)を生んでいることから、菊池一...

(二十五代) 菊池義武(1505年〜1554年)の画像は現在準備中です

「(二十五代) 菊池義武(1505年〜1554年)」詳細ページへ移動します

(二十五代) 菊池義武(1505年〜1554年)

大友重治といい、豊後国の戦国大名である大友義鑑(宗麟の父)の弟である。 十九代持朝の孫(木野)親則が娘を大友親治に嫁がせており、その娘がのちの当主義長(義鑑、重治の父)を生んでいることから、菊池一...

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