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十七代 菊池武朝(1363年〜1407年)
武政の長子で、幼名は賀ヶ丸。1374年、武政の死去により12歳の若さで家督を継承し、懐良親王の甥である良成親王を新たな征西将軍として迎える。
1375年、菊池十八外城の一つである台(うてな)城での水島の戦いをはじめ、託磨原の戦いなど良成親王を支えて南朝勢力の盛り返しを図るが、九州探題今川了俊の前に守山城も奪われる。1392年に南北朝が合一となる少し前、南朝方のなかで不和が生じたときに、菊池一族の正当性を訴えるものとして武朝が南朝朝廷に提出したものが「菊池武朝申状」であり、この「申状」のなかに菊池一族が藤原氏の血筋であることが記述されている。
南北朝合一後も、肥後における菊池一族の重要性が認められ武朝は肥後守護に任じられた。
墓所は、重味(金峯)の真徳寺跡に亀趺のものが建てられているが、稗方にも墓碑が建てられている。
菊池市重味(金峯)の真徳寺跡にある武朝の墓。亀趺である。真徳寺は武朝の菩提寺とされる。
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