きくち物語コンテンツ一覧を見る

癒しの里、きくち

菊池で遊ぶ

菊池で食べる

菊池で泊まる

菊池の情報

菊池を学ぶ

前のページに戻る

記事の詳細

菊池一族の出自

更新日:2015年7月23日

 菊池氏のルーツは、長い間中央の有力貴族である藤原氏にあるとされてきました。

 これは、第17代武朝(たけとも)が、仕えていた吉野の朝廷に送った手紙(菊池武朝申状)に「大宰府の長官藤原隆家の子孫則隆が、菊池氏の始まりだ」と書いていたからです。

 水戸黄門でお馴染みの徳川光圀も、その著作「大日本史」の中で菊池氏の項を執筆する際、「菊池武朝申状」を参考に、「菊池氏は藤原隆家の子孫」と書きました。水戸光圀の「大日本史」といえば、近世の歴史書としては大ベストセラーであり、特に幕末の尊王思想に大きな影響を与えました。

 更に、戦前においては皇国史観のもとで、平泉澄という著名な歴史家が「菊池勤皇史」という本を書き、その中でも「菊池氏が藤原隆家の子孫であることは疑いない」と書いたため、長い間この説が信じられてきました。

 しかし、最近の研究では、初代則隆(のりたか)は地方の豪族で、11世紀前半に藤原隆家に仕えた武人であったという説が有力視されています。

 当時の大宰府は朝廷による九州支配の要で、実力者が長官として任命されていました。地方の豪族たちは子弟を仕えさせ、中央の官僚と結びつく場になっていたようです。

 菊池氏も一族の権威を高めるために、藤原氏に接近して中央貴族の子孫であると名乗り、その権勢を利用しつつ、荘園の開発や経営を行いながら、肥後での勢力を伸ばしていったものと考えられています。

 それでは、則隆以前の一族とは、どのような人たちだったのでしょう。

 平安時代から更に遡り、古代の菊池に目を向けると、この地域には鞠智城がありました。鞠智城は、665年頃に当時日本を支配していた大和朝廷が築かせた古代山城の1つです。

 当時の日本は、朝鮮半島における「白村江の戦い」に参加したものの唐・新羅の連合軍を相手に敗れてしまい、敗戦後、日本列島に攻め込まれることをとても警戒していたので、九州を中心にその備えとなる山城を築いたのです。

 鞠智城は立地的にも最前線ではなく、武器・食糧を補給する支援基地としての役割を担っていたとされていますが、もちろんここにも兵士がいて、戦いに備えて日々鍛錬を重ねていたはずです。つまり菊池の地では古代から、後の武士団を形成していく地盤が育まれていたということです。

 この鞠智城で何らかの役割を担っていた豪族が、鞠智城を管轄していた大宰府へ出仕し、そこで仕えていた藤原隆家を祖として結び付けたのではないか、というのが、最近の新しい説になっています。

 ちなみに、「鞠智」の標記は8世紀頃から「菊池」として古文書に登場しています。

 

鞠智城

▲現在の鞠智城跡(国指定文化財)



お問い合わせ

菊池市役所 教育委員会 生涯学習課 社会教育係
電話番号:0968-25-7232この記事に関してお問い合わせする


前のページに戻る

カテゴリ内 他の記事