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菊池武朝申状

更新日:2015年11月27日
武朝


申状 

 菊池武朝申状(きくちたけとももうしじょう)は、散逸してしまっている菊池一族関連の資料の中でも、直接にその歴史を綴った資料として貴重なものです。

 これを書いた十七代 菊池武朝(1363年〜1407年)は当時、北朝方だけでなく南朝方の中にも反対勢力を抱え、追い詰められていました。

 1381(弘和元)年、菊池の本城は九州探題(北朝方の九州統括職)の今川了俊(いまがわりょうしゅん)に奪われ、武朝は肥後の南部へと追われました。旗色が悪くなるにつれ、南朝方にも厭戦ムードが広がり、自らの地位と所領の確保のために北朝との和睦を求める声も高まってきます。そしてそのような勢力にとって、あくまでも南朝再興を目指して戦い続ける良成親王(りょうせいしんのう)・武朝のコンビは目障りであり、南朝朝廷に対し、2人をおとしめるような訴えを起こす者も出てきました。

 度重なる訴えに、南朝朝廷は良成親王のもとに使者を出し、事の真偽を確かめようとしますが、本城まで奪われた武朝が未だに筆頭の武士としての権限を持っていることに納得できない者たち(名和顕興など)が、特に武朝を中傷します。

 この時21歳の武朝はこれを憤慨し、自ら筆を取って朝廷にそれまでの菊池一族の忠節ぶりやいわれなき訴えへの反論を書き綴りました。

 この申状を受けて、朝廷も武朝の主張を受け入れ、引き続き九州南朝方における武朝の権限を認めたのです。

 

 

菊池武朝申状(現代語訳)

 右京権大夫(うきょうごんのだいぶ)である菊池武朝が一族代々の家業について申し上げます。

 この度、朝廷からの使者殿が良成親王に対し、今の状況では多くの家臣の訴えを差置くことは出来ないと申されたそうですが、これは当家が、建武の新政(1334年)以来の忠臣に過ぎないとのお考えからでしょうか。

 謹んで、当家の忠節の歴史をご案内しますと、関白藤原道隆4代の子孫である藤原則隆(のりたか)が、延久年中(1069-1073年)に菊池郡に下向して以降、武朝に至るまで17代にわたって、凶徒に与せず天皇家に奉仕して参りました。

 寿永・元暦(1182-1185年)の頃は、6代隆直(たかなお)、源氏の反逆には味方せず、剣璽(けんじ、天皇家の宝)をお守りし、安徳天皇の勅命を受け、数年間忠実に戦い、嫡子隆長・3男秀直以下数名が命を落としました。

 後鳥羽上皇の御代、承久の乱(1221年)の折には、8代能隆(よしたか)が京都大番役となり、2人の叔父を上京させ、後鳥羽上皇に従って戦いました。その結果、承久の乱の敗戦後、当家の領土は数箇所、執権北条義時に没収されてしまいました。

 文永・弘安の2回の蒙古襲来の時(1274年、1281年)は、10代武房(たけふさ)が戦場で勇敢さを見せつけ、その名を異国に知らしめ、日本軍のなかでも群を抜いた活躍が、天下の歌謡にも歌われたほどでした。

 後醍醐天皇の御時である元弘3(1333)年、12代武時(たけとき)が恐れ多くも帝の勅命をいただき、同3月13日、凶徒である鎮西探題北条英時の陣に打入り、父子一族以下残る所なく打死しました。その結果、建武の新政の頃、新田義貞・楠木正成・名和長年が出仕した際、楠木正成は、『元弘年間には多くの忠臣が活躍したが、みな命のある者ばかりだ。唯一勅命に従い、命を落とした者は武時入道である。一番の忠厚を示されたのではないか』と発言しています。これが正成だけの私見ではなく、世間において認められていたからこそ、天皇のお心に適ったのでしょう。建武2(1335)年、足利尊氏が謀叛した後、13代武重(たけしげ)が上京し忠節を示した時、天皇直筆にて戦功を賞された者として比類なき栄誉をいただきました。

 この頃九州では、菊池に残っていた武敏(たけとし、武重の弟)が小弐貞経(さだつね)を破り、足利尊氏が九州に下向した時には多々良浜において合戦し、その武勇を示しました。延元2(1337)年に武重が菊池に帰ってからも度々合戦をし、都や地方を問わずその栄誉を讃えられました。

 その後14代武士(たけひと)は武重の武名を相続し、肥後筑後を駆けまわって、遠近の南朝方を守るために何度も合戦をしました。

 興国(1340-)以後は15代武光が、故懐良親王(かねながしんのう)をお迎えし、最初八代城において一色範氏(いっしきのりうじ)父子を降伏させた後、大小の策略を提案し、大友氏・少弐氏などを味方につけ、二十余年の戦乱の中、九州を平定した大功労者となりました。

 16代武政(たけまさ)は、武光の忠節と武功を受けついで度々合戦し、様々な計略を敷きながらも早逝してしまったので、私、武朝が12才の時から征西将軍の軍勢として参戦しました。先祖が築いてきた行跡を守り、九州の御大事を荷う身となってからは、文中のころ(1372-1375年)今川了俊が肥後に攻めてきた時、数ヶ月間、水島の陣にて防戦し、今川了俊を撃破して、九州に再びの平和をもたらしました。

 その後私は、征西将軍宮の旗のもと、肥前国府の陣中で様々な計策をめぐらせ、今川仲秋が松浦党などの凶徒を率いて博多へ向っているところに、肥後国守護代である菊池武国を派遣して、大合戦ののち仲秋を追い散らしました。更に、大内義弘、豊前・豊後両国の凶徒が、そろって出陣してきたので蜷打(になうち)陣にて合戦し、武光の舎弟である武義、ならびに武安が討死しました。その後、今川、大友、小弐、大内兄弟の数千騎が肥後国に来襲した際、詫磨原(たくまばる)にて天授4(1378)年9月、武朝16才の時、運を天に任せ、命を公儀に忘れ、無勢ながらも多勢の陣に馳せ入って懸命に戦い、一族以下の精鋭が数十人討死し、自分自身も傷を受けながら攻戦している最中に、征西将軍宮(良成親王)が出陣されて了俊に突撃され、御合戦に及んだところ、散在していた宮方の軍が少しずつ御旗下に馳せ参ったため、凶徒を退散させることができました。

 弘和2(1382)年のころは、私が勅命を守って征西将軍宮に奉仕している時、一族内部の家来などが敵方にそそのかされ、分領である守山に立て籠もり、武朝を退けようと企てているところを、時を置かずに自ら出陣し、追い落しました。これはつまるところ私的な計策ではありますが、公平を期すためにここに記しておきます。かつ、勅使もよくご存知のものです。

 これらのことをはじめ、元弘以後(1331年〜)は当家の武略を以って九州で多くの合戦をし、今に至るまで今川了俊の多勢の軍と対治してきました。元弘3(1333)年より今年弘和4(1384)年に至る52年の間は特にです。この間、正平13(1359)年以後27年間、名和顕興(なわあきおき)は、武光以来の武功のおかげで、当家の分国に居住している立場なのですから、当家の功勲の次第を全部しっかりと把握しておくべき者であり、自らが筆頭の武士に成り代わろうなどと言語道断です。

 このようなことから、これまでの忠孝の度合いを加味して、お裁きがあるべきです。どうして当家代々300年以上の忠義をさしおかれて、近年になって奉公している輩の望むことを優先しようとされるのでしょうか。

 また征西将軍(良成親王)におかれては、正平年間(1346-1369年)に勅命によって、亡き帝の代官となり、長年の苦労を積まれ、その判断に誤りはないのですから、帝のお裁きとしても他に取るべき選択などあるとは思えません。

 そこで前記記載の通りです。

                      藤原 武朝

弘和4(1384)年7月 日

 

 

菊池武朝申状(読み下し文) 菊池市史より

 菊池右京権ノ大夫武朝申す代々家業の事。

 右今度勅使、将軍の宮に申さるる如くんば、当家の忠孝は、元弘の忠士に過ぐ可からざるか、ここに因りて群党の愬(うったえ)を閣(さしお)かれ難しと云々。

 謹んで当家忠貞の案内を検するに、中の関白道隆四代の後胤太祖大夫将監則隆、後三条院の御宇延久年中、始めて菊池郡に下向してより以降、武朝に至るまで十七代、凶徒に与みせず、朝家に奉仕する者なり。

然れば寿永元暦の頃は、曩祖(のうそ)肥後守隆直、東夷の逆謀に与みせず剣璽を守り奉り、安徳天皇の勅命を受けて、数年忠勇を励み、嫡子隆長、三男秀直以下、数輩命を致し畢(おわん)ぬ。後鳥羽院の御代承久合戦の時には、先祖能隆、大番役として、叔父両人を進め置くにより、院宣に随って進み戦い畢ぬ。それに就いて当家の本領数箇所、平義時の為に没倒せされ畢ぬ。文永・弘安両度、蒙古襲来の時は、高祖武房、勇敢を戦場に励まし、佳名を異朝に施し、既に日本の日本たるの大功を抽(ぬき)んずるの由、天下の歌謡に顕われ畢ぬ。後醍醐天皇の御時、元弘三年には、曽祖父武時入道寂阿、悉(かたじけな)くも勅詔を奉じ、同じき三月十三日、凶徒の将、平秀時の陣に打入り、父子一族以下、残る所なく打死せしめ畢ぬ。然れば元弘一統の頃、義貞、正成、長年出仕せしむるの日、正成言上の如くんば、『元弘の忠烈は労功の輩これ多しと雖(いえど)も、いづれも身命を存する者なり。独り勅諚によりて一命を墜せる者は、武時入道なり。忠厚尤も第一たるか』と云々。此の条叡聴に達するの由、世以て其の隠れなき者なり。建武二年高氏謀叛以来は、武重参洛せしめ忠党を献ずるの間、宸翰(しんかん)以下の御感特に比類を絶つ者なり。鎮西に於ては在国の一族等、妙恵誅伐の功を致し、高氏下向の時、多々良浜の合戦に於いて、武節を励まし畢ぬ。延元年中、武重下向の後は度々の合戦いたし、都鄙(とひ)の善誉(ぜんよ)を蒙(こうむ)るか。その後武士、彼の武名を相続し肥後・筑後を馳せ廻り、度々合戦を致し遠近の官軍を護持せしめ訖(おわ)ぬ。興国以後は武光、故大王の入御を成し奉り、最初八代城に於いて、自ら一色入道々猷父子を対治せしむるの後、大小の籌策(ちゅうさく)を申し沙汰し、大友少弐等を味方に服さしめ、二十余年の陣、鎮西一統の大巧なる者なり。武政は、彼の忠功を相続せしめ、度々の合戦を致し、種々の計略を運らす時分、早世せしむるの間、武朝十二才の時より、筑州大王の御陣に参勤せしめ、父祖の行跡を守り、鎮西の御大事を荷担せしめてより以来は、文中の比、了俊肥後に寄せ来るの時、数月防戦の武略を励まし、水島陣に於いて、了俊追落しの功を成し、鎮西両年の静謐を致し訖ぬ。其の刻、武朝、将軍ノ宮に属し奉り、肥前国府に在陣せしめ、諸方の計策を運らす処、今川仲秋・松浦以下の凶徒を相率いて、博多に打出づるの間、肥後の国の守護代武国を指し遣わし、大綱の合戦致し、仲秋を追散らし畢ぬ。又大内義弘、豊前、豊後、両国の凶徒相共に罷り出づるの間、蜷打(になうち)陣に於いて合戦を致し、武光の舎弟武義入道自関、並びに武安討死せしめ畢ぬ。然して後、了俊の一類、大友、小弐、大内兄弟数千騎、肥後の国に寄するの間、詫磨原に於いて、天授四年九月、武朝十六才の時、運を天道に任せ、命を公儀に忘れ、無勢たりといえども、多勢の陣に馳せ入り、戦伐の勇力を抽(ぬき)んで、一族以下の鋭卒数十人討死せしめ、自身疵を被りて攻戦の最中、将軍の宮出陣ありて馳せ向われ、了俊御合戦に及ぶの間、散在の官軍少々御旗下に馳せ参るによりて、凶徒退散せしめ畢ぬ。

 弘和二年の頃は、武朝、叡旨を守りて将軍宮に奉仕するの間、一族以下の扶持人等、彼の朋党の語らいを受け、分領守山の要害に楯籠り、武朝を黜(しりぞ)けんと擬するの条、時日を廻らさず、自ら馳せ向い、追落さしめ畢ぬ。是即ち私の計策たりといえども、偏に公平を存する所也。且度々の勅使、見知らせらるる者也。加之(これにくわうるに)、元弘以後は当家の武略を以て、九州毎度の合戦を致し、今に至るまで了俊多勢の陣を相支え畢ぬ。就中(なかんずく)、元弘三年より今稔(ことし)弘和四年に至りては、五十二年の星霜なり。此の間、正平十三年以後、二十七年は、顕興入道紹覚、武光以来の武功に憑み、当家の分国に居住せしむるの上は、功勲の次第、皆宜しく存知すべき者なり。然らば即ち忠の深浅に就いて御成敗あるべくば、何ぞ当家代々三百余歳の忠義を閣(さしお)かれ、近年奉公阿党の所望を賞せられんや。亦(また)理非に任せて御沙汰あるべくば、将軍宮御事、正平の勅裁を受けられ、故大王の御代官として、年来の労功を積まれ、御理運相違なき上は、勅裁豈(あに)余儀に亘るべけんや。仍(よ)って言上件のごとし。

                      藤原 武朝

弘和四年七月 日


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