菊池一族 the Kikuchi Clan

今川了俊

2021年03月19日

今川了俊(いまがわりょうしゅん/貞世/さだよ)は、戦国大名今川義元の祖先、今川宗家3代範国の次男として生まれ、室町幕府きっての智将として名を馳せました。1370(建徳元/応安3)年、菊池15代武光率いる南朝勢の快進撃に頭を悩ませた幕府が、最後の切り札として九州探題に任命したのがこの人物です。

 了俊は極めて優秀な戦略家であり、勇将と名高い武光を攻略するため、長い時間をかけて入念に準備を施しました。任命から2年後、現地の元北朝勢と共に作り上げた4方向からの包囲網で大宰府を攻撃。さすがの南朝勢も持ちこたえることが出来ず、大宰府は陥落し、久留米の高良山へと撤退しました。武光の死の時期については諸説ありますが、いずれにせよこれ以降史料の中に武光の名前は登場せず、了俊のライバルは16代武政、そして17代武朝へと移り変わります。

 1374(文中3/応安7)年、高良山から撤退した武朝を追って、了俊は菊池の水島へと兵を進めますが、ここで智将らしからぬ大失態を犯します。味方であるはずの少弐冬資の裏切りを疑い、騙し討ちにして暗殺したことで、少弐氏はもちろん同じ守護大名の島津や大友の反感を買って孤立化し、結果13歳の武朝に黒星を喫したのです。

 以後、了俊は守護大名たちとの関係性に悩むことになるのですが、持ち前の粘り強さで菊池を攻め立て、1381(弘和元/永徳元)年に菊池城を落とし、その10年後には八代城に籠っていた南朝勢を降伏させて九州平定を成し遂げました。

 南北朝の合一後、了俊は敵方だった武朝に、肥後の領主職を与えます。以後武朝は了俊に従い、よき理解者として関係を築いていくことになりますが、1395(応永2)年、了俊に上京の命が下り、突然九州探題の職を罷免されてしまいます。将軍足利義満が、九州の勢力を掌握した了俊の反乱を恐れたため、というのが主な理由のようです。

了俊が菊池攻めの拠点とした亀尾城跡了俊はその後駿河(静岡県)に移り、晩年は持ち前の文才を活かして「難太平記」などの著作を残しています。

図:了俊が菊池攻めの拠点とした亀尾城跡

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