同田貫は「延寿」という刀鍛冶の末流にあたるのですが、この延寿一族こそ、菊池一族のお抱え鍛冶として活躍した人々でした。
延寿鍛冶のはじまりは、文永年間、つまり菊池一族の10代武房の時代で、蒙古襲来(元寇)の頃であると伝わっています。
当時、世界最強と言われた蒙古(モンゴル)軍を迎え撃つために、強い刀を求めた武房が、京都で活躍していた一流の刀鍛冶である来(らい)一派の刀工を菊池へ呼び寄せたというのです。それが延寿派の創始者、延寿太郎国村でした。
国村は西寺に屋敷を与えられ、これ以降、延寿一族は菊池一族のお抱え鍛冶として多くの刀剣を作りました。
図:太刀 銘「国吉」の写真
(撮影:井上啓 ディレクション:太田光柾)
菊池川水系は豊富に砂鉄を含み、刀を作る好条件がそろっていたことも、菊池の作刀を支える大きな要素でした。
菊池の地で作られた一流の刀は、後の世に徳川将軍家への献上品となったものもあり、十分な質の高さを誇っていたことがうかがえます。
図:菊池一族10代武房のイラスト