菊池一族関連の神社と言えば、まずは菊池神社を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、菊池神社は明治時代に菊池一族を祀るために創建された神社であり、彼らの活躍した時代の氏神は菊池市北宮にある北宮阿蘇神社でした。
『肥後国誌』には、永和4年に16代武政が勧請したとありますが、永和4年は北朝方の年号で、西暦だと1378年、南朝の年号だと天授4年にあたり、武政は1374(文中3)年に亡くなっているので、これは17代武朝の時代に当たります。
当時、菊池と阿蘇大宮司家の繋がりは非常に強く、15代武光も数か所に阿蘇神社を勧請しているようです。武朝の時代になると、劣勢が明らかになっていく中で南朝方として共に戦った阿蘇惟武らは、心から信頼出来る貴重な仲間という意識もあったことでしょう。
北宮阿蘇神社の宝物に、県指定文化財「木造男女神坐像」があります。坐像の底部には応永10年(1403年)の墨書きとともに、武朝の名前があります。1403年と言えば、南北朝の合一から10年以上が経ち、武朝は肥後の領主として活動していた時期です。敗北した南朝方であるにもかかわらず、肥後の領主に任じられた武朝には、その正当性を示し続けることが必要でした。この見方から考えると、男女神坐像は武朝の先祖たちを表した像だったのではないかという説があります。かつて、南朝方内部からの反発を受けて武朝が南朝朝廷に提出した「菊池武朝申状」の中でも、先祖代々の忠節を根拠に、菊池が侍大将を務めることの正当性を主張しているように、歴代菊池の先祖たちの偉業は、武朝にとっても当時の周囲の人々にとっても大きな意味を持つものだったのでしょう。その先祖たちに勝るとも劣らない波乱万丈の生涯を送った武朝が、先祖たちや盟友である阿蘇家の助けを得ながら動乱を乗り切った証が、北宮阿蘇神社として残っているのかもしれません。