菊池一族と聖護寺の関係を一変させたのは、15代武光でした。幼少の頃、大きな恩を受けた博多の大方元恢(たいほうげんかい)和尚を菊池に呼び寄せて、臨済宗の熊耳山正観寺(ゆうじざんしょうかんじ)を開き、菊池の仏教信仰の中心は正観寺に移りました。武光は更に、禅宗の「五山制度」を菊池に取り入れ、領主としての権威を示しました。
五山制度とは、もともと中国で行われていたものを鎌倉幕府が取り入れたもので、寺を格付けして管理することで、その任命権を持つ政府が、勢力を広げる禅宗をコントロールするという目的もあったようです。武光はこの考え方を菊池に持ち込み、「菊池五山」を制定しました。足利義満が京都五山を制定する以前のことであり、武光の政治的なセンスの高さがうかがえるエピソードと言えるでしょう。
しかしこれは、聖護寺の教えの下に一族の繁栄があり、大智の導きに従って政治の重要な課題に取り組んでいた武重や武士の時代とは、考え方が大きく異なるものです。このため大智禅師と武光の関係は、それまでの時代の当主たちとは異なり、冷ややかなものになっていたようです。
武光が五山として制定したのは、輪足(わたる)山東福寺(亘)、無量(むりょう)山西福寺(西寺)、手水(ちょうず)山南福寺(出田)、袈裟尾(けさお)山北福寺(袈裟尾)、九儀(きゅうぎ)山大琳寺(大琳寺)で、正観寺を五山の上と位置付けました。五山の禅僧は修行だけではなく、地域住民の教化も行う文化の伝達者という側面もあり、菊池の文教を担う存在となりました。正観寺はその後、室町幕府により天下十刹(全国的に格付けされた禅寺)にも選ばれるほどの繁栄を遂げました。