信仰が菊池一族に大きな影響を与えた例としては、13代武重が土地を寄進して建立された鳳儀山聖護寺(ほうぎざんしょうごじ)が挙げられます。曹洞宗の高僧である大智(だいち)禅師を招いて建てられた寺で、武重自身もこの寺で熱心に修行し、一族の心の拠り所となっていました。
大智禅師は肥後の出身で、中国に留学し、帰国後は曹洞宗の総本山、永平寺の正式な後継者として選ばれたほどの人物でした。
武重の制定した『菊池家憲』の中にも、「仏教の正しい教えと共に一族の長い繁栄を願う」という意味の言葉があるように、戦乱の続く不安定な世の中にあって、聖護寺の教えは一族団結のための鎹(かすがい)として欠かせないものになりました。
武重の死後も、武重の弟たちが聖護寺の教えを精神的支柱にしていた様子が記録に残っています。14代武士は、武重の遺言によって当主になりましたが、動乱の世の中にあって一族を率いることに大いに悩み、自分の選ぶべき道について大智に教えを請いました。「天下のために、当主の立場をより相応しい人物に譲ります」と記した『譲り状』も、大智に対して発されています。このような記録からも、聖護寺、そして大智が、一族にとって如何に重要な人物として見られていたのかがよくわかります。
後述する武光の時代において、武光の兄武澄は、二人の間をよく取り持ち、聖護寺と征西府の橋渡しのような存在でした。しかし武澄が亡くなると、大智は菊池を去り、玉名の広福寺に移りました。この時大智は、武重以下の兄弟たちが大智に送った手紙の数々を広福寺に持参し、それが後の世まで大事に保管され、菊池一族の貴重な文書である『墨書広福寺文書』として国の重要文化財に指定されて現存しています。