生き恥を晒す格好での日々を余儀なくされた西郷でしたが、薩摩藩はこれを逆手に取り、月照とともに死んだと偽ってお尋ね者の西郷を奄美大島の龍郷に潜伏させ、幕府の目から身を隠させました。この失意の状況で、西郷は潜伏にあたって仮の名前を名乗ります。
その名も、菊池源吾。
『吾が源、菊池にあり』と名乗った西郷。実は西郷は、自らのルーツを菊池一族に求めていたのです。
西郷家に伝わる家系図によると、その祖先は菊池一族初代則隆に遡ります。則隆の子、政隆は、菊池本城の西、現在の菊池市七城町の西郷地区を与えられ、ここに居城増永城を築きました。そしてこの政隆から数えて26代目、昌隆の代で島津に奉公し、隆盛自身は32代目に当たるというのです。