実は西郷にとって、菊池一族の子孫であると信じることには大きな意味がありました。西郷と言えば、言わずと知れた尊王攘夷運動の筆頭の1人。 当時、勤皇を掲げる志士たちは、こぞって楠木正成、新田義貞など、南朝の英雄たちの墓詣でに参じたと言います。
そして、同じ九州で、百戦錬磨の勇将と呼ばれた南朝方の英傑、菊池武光。武光のみならず、一族代々天皇に尽くした誉れの高い菊池一族の血を、自らもまた引いているのだという自負は、絶望のなかにある西郷にとって、どれほど大きな支えとなったことでしょう。
今は耐え忍ぶ時でも、いつか必ず果たすべき志を忘れないように。
そんな想いから自ら『菊池』と名乗り、そう呼ばれることを選んだのかもしれません。
また、西郷は更にこの地で生まれた2人の子どもにも、菊次郎、菊草(菊子)と菊の字を与えました。
その後1862(文久2)年、いよいよ西郷を不可欠と考えた薩摩藩は、彼を奄美から呼び返します。この後、大西郷と呼ばれた男の大躍進が始まるのです。
西郷隆盛は、本当に菊池一族の子孫であったのか。今となってはその真偽は明らかではありません。それでも、彼自身がそのルーツに求めた西郷地区の増永城跡は、平安 時代に端を発し、南北朝の世を、明治の世を、そして今も、静かに世の中の移り変わりを見守っているようです。