菊池一族 the Kikuchi Clan

菊池一族 散策マップ 10キロコース(前半)

2021年09月09日

<

A.菊池武光公騎馬像

A★徒歩で散策される場合には、広場北側の菊池神社参道から階段を登って次の「B.菊池神社」に進むことが出来ます(グーグルマップ非対応のため表示されておりません)★


南朝朝廷より征西将軍懐良親王を迎え、菊池一族の最盛期を築き上げた、15代武光。九州の北朝方を一掃し、百戦百勝の勇将と讃えられました。

この騎馬像は平成4年に完成し、以来菊池のシンボルとして親しまれています。

軍配を振りかざし、鋭い視線を送る先は、大宰府。

宿敵少弐氏の本拠地であり、かつて菊池氏が官位にあって大いに繁栄を謳歌していた場所です。

九州平定に王手をかける、一戦。

この戦に臨む武光の滾る想いを表した、躍動感あふれる騎馬像です。

B.菊池神社

B明治3年、かつて菊池一族の本拠地だった守山城跡地に、菊池神社が創建されました。明治維新の後、朝廷に忠義を尽くした人物や一族を讃える動きが起こり、明治天皇の「菊池氏は武時以来、累代皇室に勤労し、その誠忠臣分の模範」という言葉により造営されたものです。

守山城は16代武政により、それまで本拠地であった深川から移されて菊池の本城になりました。これは南北朝の動乱がいよいよ激しくなり、より砦としての性格の強い城に移らざるを得ないほど、情勢が緊迫したものであったことを示しています。

守山城の背後には「内裏尾」と呼ばれる懐良・良成両親王の御座所もありました。

菊池神社の主祭神は、12代武時、13代武重、15代武光。この他一族等26柱を祭神としています。境内には菊池一族や一族に関連する史料を展示した歴史館も併設されています。

C.輪足山東福寺

C

938年に開基(709年開基説など諸説あり)、初代則隆公が再興した寺です。丘の中腹にあり、眼下に武重公墓所が見えます。

   


D.菊池武重公墓所

D

13代武重は、「寄合衆内談の事」や「菊池千本槍」を残すなど、菊池一族の全盛期の礎となる大きな影響を与えました。

      


 

E.菊池能運公墓所

E22代能運は相良氏と戦い八代を奪い勝利を収めましたが、23歳で死去。菊池氏の正統はこの能運で途絶えました。

      


 

F.菊池武光公墓所・熊耳山正観寺

F熊耳山正観寺は、1344(興国5)年、15代武光が建立した寺です。

きっかけとなったのは、遡ること11年、1333(元弘3)年に武光の父12代武時が博多の鎮西探題を襲撃した際のこと。実はこの合戦には、14歳の武光も同行していたのです。少弐、大友の裏切りを受け、決死の覚悟で探題館に討ち入りを果たす直前、武時は幼い武光を、博多の臨済宗聖福寺に預けました。その後無事に菊池へ送り返された武光はこの恩に報いるため、自らが当主になった後、この寺の大方元恢和尚を招いて正観寺を立てたのです。

武光の墓は、この正観寺の境内にあります。

墓木と思われる樹齢600年を超える樟の下に、堂々と鎮座する亀趺(きふ)の墓。

実はこの墓は、当時からのものではありません。江戸時代の後期に建て直されたものです。

南朝の雄として名を馳せた武光は、「幕府に対抗した者」として、江戸幕府の統治下においても冷たい視線にさらされ、その墓も省みられることなく廃れ果てていたと言われています。

この状況に、郷土の偉人を讃え、相応しい墓を建てたいと立ち上がった人たちがいました。渋江紫陽(しぶえしよう)、松石(しょうせき)親子です。彼らは近代菊池の文教の祖とも言える人たちで、菊池一族の顕彰(讃えて啓発すること)に大きな役割を果たしました。

武光の墓を建てるにあたり参考にされたのが、同じく南朝方の立役者、楠木正成の墓でした。楠木正成の墓は、水戸黄門でおなじみの水戸光圀が、兵庫県の湊川神社に建てさせたものでやはり亀趺の墓です。

亀趺とは、写真のとおり「亀蛇(きだ)」と呼ばれる空想上の生き物を台座にした墓のことで、めざましい孝徳を積んだ人だけに許される特別な墓とされてきました。亀蛇とは中国で「仙人の乗りもの」とされている生き物です。

南朝方に尽くした楠木正成に亀趺の墓が許されるのであれば、武光にもまた相応しいと、紫陽、松石親子は考えました。江戸幕府の統治下で、武光を神聖視した墓を建てるのが簡単なことではありませんでしたが、1779(安政8)年、二人の念願は叶い、この墓が建てられました。

34メートルを超える大樟の下、優れた石工の技術を思わせる凛々しい顔立ちの亀蛇が、今も武光の安息を護っています。

菊池氏の菩提寺となったこの正観寺の境内には、武光の墓の他、16代武政や武光の兄武澄の墓などがあります。

      


 

G.菊池持朝公墓所(光善寺)

G肥後守護であった19代持朝は、将軍足利義教から、筑後守護職を与えることを条件に、豊後の大友氏と敵対し、肥後・筑後の守護として勢力を保ちましたが、38歳の若さで死去しました。

      


 

H.北宮阿蘇神社

H

1375年に17代武朝が、一説には16代武政が創建したと言われ、懐良親王が使用したと伝えられる軍配が残っています。

   



この記事へのお問合せ

担当部署:菊池市役所 経済部 観光振興課 菊池プロモーション係

電話番号:0968-25-7223