『菊池風土記』(※)によると、この城の主は惣谷氏と平山氏が代々務めていたとあります。菊池から阿蘇二重峠(ふたえのとうげ)に至る山越え道の西側に位置し、北東の麓に岩下という集落を望む高台になっています。菊池川支流の河原川、また更にその支流の流れにより、この付近の丘陵は複雑に谷が入り組んだ天然の要害です。近くの市成城、掛幕城、五社尾城に比べると高度は低いですが、南東から南にかけては非常に見晴らしが良く、豊後・阿蘇方面に対しては市成城の後備として、また大津方面には直接にらみをきかせるための守りとして築かれたものと思われます。
東に正面を向いて、四基の石碑が並んでおり、「菊池北野人吉守」とか、「菊池黄金塚大神」と刻まれています。いずれも明治時代の中頃に建てられたもので、城跡を祀ったもののようです。
また、岩下から西へ600mほど離れた塚原という集落に、菊池家の金倉跡と言い伝えられる民家がありました。金倉跡と城跡は山道で結ばれていますが、残念ながら根拠は伝承のみで、実証できる資料は残っていません。
※菊池風土記…江戸時代に活躍した渋江松石という人物が、菊池の地理をベースに、地域に残る歴史などについて記した書物。
▲黄金塚城(イメージ図)