武光の嫡子。1367年に肥後守となり、同時に家督も継承したと考えられる。守山城(菊池本城)に惣領の本拠地を移したのはこの頃と考えられる。
武光に従いよく戦ったが、武光死去の翌年(1374年)に死去。
墓所は熊耳山正観寺の境内にある。
武政の墓。奥にあるのは大方元恢和尚とその師である秀山元中和尚の墓。
武政の墓の隣は、武澄の墓。武澄は武政の叔父にあたる。肥前菊池氏の祖で、二十四代武包は武澄の子孫である。武光の時代に豊後方面を攻める将軍として活躍したが大原の合戦の前に病没。妻が玉名の廣福寺を建立した。
武澄の墓の下は武国の墓。武国は武政のいとこにあたり、後征西将軍良成親王と十七代武朝を支えて奮戦した。