武重の弟で、武重の死去後家督を継承し、北朝方の混乱に乗じて筑後などへの進出を試みたがうまくいかなかった。
のちに合志幸隆に北宮館(菊之城)(サイト内リンク)を奪われ、これを奪還した武光に十五代の家督を譲り(1344(興国5)年)、出家して寂照と号し全国を回った。菊池に帰ってきたのは十七代武朝の時代(1376(天授2)年)になってからのことで、このときに寺尾野大円寺で「袖ふれし 花も昔を忘れずば 我が墨染めをあはれとはみよ」と短歌を詠んでいる。
墓所は八代市二見の、武士が開いた正福寺の裏山の墓地内にある。