武時の嫡男で、「袖ヶ浦の別れ」のあと武時の死去を受け家督を継いだ。父武時の忠義に対し後醍醐天皇より肥後守として正式に認められる形で恩賞を受ける。
1338年、一族の結集をより強固にするため、「よりあひしゅないたんのこと」(菊池家憲)により、重要事項の決定以外は一族の合議制によることや、宗家と庶家の関係を明確にすることなどを定めた。
また、箱根竹ノ下の戦いにおいて、短刀や小刀を竹の長柄に取り付けて槍とし、1000の兵で3000の兵を破ったとされる「菊池千本槍」を考案したとされる。なお、矛や槍といった武器自体は古くからあったことは分かっており、ここでいう菊池千本槍とは「槍を使用した集団戦法」という意味を象徴するものとしての名称と考えられる。これより以前は個人対個人、または数人規模での戦い方が主流であったが、菊池千本槍が先駆けとなり、のちの戦国時代に鉄砲が登場するまでの間、いわゆる「槍衾(やりぶすま)」という有効な集団戦法として重用された。
また、鳳木山聖護寺を開いた大智禅師を招いたのも武重で、仏門に入ってからは寂山と号した。
菊池神社の主祭神の一柱であり、墓所は亘、菊池五山の一つ輪足山東福寺の当時「歓喜院」と呼ばれた場所にある。亀趺の墓で、15代武光の墓を模して文化13年(1816)に建てられている。
よりあひしゅないたんのこと(菊池家憲)菊池神社文書(国指定重要文化財)の一つで、後に五箇条の御誓文の参考にされたとされる。
菊池千本槍(菊池神社所蔵)
菊池武重の墓(菊池市亘)
亀趺の墓
古いものもあるが、日本では多くの亀趺は江戸時代に造られている。
熊本県内では菊池市でのみ見る事ができる。