経直の子で、実質的な肥後国司として近隣の豪族を糾合して平氏の九州支配に対抗した(養和の内乱)が、ちょうど同時期に起こった大飢饉などの影響もあって最後は降伏し、平家方となった。このことにより、のちに壇ノ浦の戦いでは嫡男の隆長をはじめ息子たちを源氏に討ち取られ、隆直も捕らえられて斬首された。
隆直のときに家紋を日足紋から並び鷹の羽に改めた。
墓所は山鹿市平山の正蓮寺跡にあると伝えられている。
2020年08月20日
経直の子で、実質的な肥後国司として近隣の豪族を糾合して平氏の九州支配に対抗した(養和の内乱)が、ちょうど同時期に起こった大飢饉などの影響もあって最後は降伏し、平家方となった。このことにより、のちに壇ノ浦の戦いでは嫡男の隆長をはじめ息子たちを源氏に討ち取られ、隆直も捕らえられて斬首された。
隆直のときに家紋を日足紋から並び鷹の羽に改めた。
墓所は山鹿市平山の正蓮寺跡にあると伝えられている。