1381(弘和元)年6月22日、菊池一族に運命の時が近づいていました。
遡ること2年の1379(天授5)年、今川了俊らの軍勢は玉名・山鹿・合志を次々と平定、亀尾城を皮切りに着々と菊池の外城を取り囲みました。託麻原の戦いでの勝利もつかの間、武朝率いる菊池一族にとって厳しい「冬の時代」の到来でした。
この攻防戦で重要な役割を果たしたのが、「菊池十八外城」と呼ばれる隈府の守山(もりやま)城を囲むように配置された数々の外城です。その守りの要である外城が次々と今川軍に包囲され、段々と追い詰められていきました。
「菊池は、もはや兵糧もない時分なれば、城と城との道路に詰め寄りゆけば、思いどおりに落とすことができよう」
「宮方の勢は、残らず菊池に寄っている。今は、これにて九州の平定も見られよう」
了俊は、今にも守山城を落とさんばかりに得意げです。
対する武朝、ここで簡単に引き下がるわけにはいきません。一族郎党力を合わせ、ここからなんと2年もの間、持ちこたえたのです。
しかし力及ばず、運命の22日がやってきました。ついに守山城が落城、菊池の本拠は敵の手に落ちます。翌23日には、良成親王が立てこもる鷹取(たかとり)城も陥落、武朝とともに宇土へと逃れました。以後、今川軍から逃れるように、征西府は肥後の南部(宇土・八代)へと移り、菊池の地へ戻ることはありませんでした。
守山城主郭
亀尾城
鷹取城
守山城落城から時を経ること2年の1383(弘和3)年3月27日、山深い筑後矢部の地で、一人の貴人が波乱万丈の生涯を閉じました。その名は懐良親王。武光とともに、南朝方の黄金期を築いた前の征西将軍です。同じころ、遠く吉野の南朝では長慶天皇が後亀山天皇へ譲位されました。一方、京都の北朝方でも和平の機運が高まっていました。
1392(元中9・明徳3)年10月、ついに南朝朝廷が北朝の和睦案を受け入れ南北朝の講和が成立しました。後亀山天皇は京都に還り、北朝の後小松天皇に位を譲りました。後醍醐天皇が南朝を樹立した1336(延元元)年から、実に57年を経た「雪解け」でした。