菊池一族 the Kikuchi Clan

良成親王(りょうせいしんのう)

2021年06月07日

良成親王のイラスト 良成親王は征西将軍懐良親王の後継者として九州に訪れた「後征西将軍宮」と呼ばれる人物です。後醍醐天皇の跡を継いだ後村上天皇の第6皇子であり、懐良親王にとっては甥にあたります。6、7歳の頃、当時征西府の置かれていた大宰府に入りました。後にくつわを並べて戦うことになる17代武朝とは歳も近く、この頃から既にいい遊び相手になっていたのかもしれません。

 この頃征西府は都への遠征を目論んでいましたが、瀬戸内海の制海権を掴めていなかったことから失敗に終わりました。そこでまず四国を鎮定するため、良成親王は下向から2年ほどで伊予(愛媛)へと向かいました。

 


 


 良成親王が再び九州に訪れたのは1375(天授元)年、親王14、5歳の頃でした。先代の懐良親王が隠退を表明したため、後征西将軍として召喚されたのです。この時侍大将として南朝軍を率いていたのは、12歳で当主を継いだ武朝でした。これ以後2人は、17年間にわたって南朝最後の希望とも言える征西府を率いて戦い続けます。

 1378(天授4)年、託麻原にて今川了俊率いる北朝勢との戦いでは、絶体絶命のピンチに陥った武朝を健軍方面から突入した良成親王が救ったという記録も残っており、単なる主君と家臣という関係以上の絆を推し量ることが出来ます。この戦では最終的に南朝方の勢いが勝り、勝利を収めることが出来ました。

 ところが時代の流れは既に北朝に傾いており、託麻原の後、征西府が合戦で勝利を掴むことはなく、1381(弘和元)年、ついに菊池本城が陥落しました。龍門染土(そめつち)地区の鷹取(たかとり)城はこの際、良成親王が避難した城であると伝わっています。

 菊池を追われた征西府は、『たけの御所』と記される場所(金峰山、菊池山中等様々な説がありますが詳細はわかっていません)から川尻、八代へと次第に南下を余儀なくされ、1391(元中8)年、北朝軍に降伏。翌年、両朝が合一され、55年にわたる南北朝時代が終幕を迎えました。


ことはじめ武朝(左)+良成親王(右)のイラスト右図:ことはじめ武朝(左)と良成親王(右)

 良成親王はその後、懐良親王が最期の時を過ごした福岡の八女に移りましたが、その余生は穏やかなものとは言えませんでした。南北朝合一の際に結んだ「南朝側・北朝側両方の血統から交互に天皇を立てる」という条件を、幕府が無視して北朝側の天皇だけに跡を継がせようとしたことに憤り、南朝再興を呼びかけた手紙が残っています。このためか、八女の住処が襲撃されることもあったようです。

 良成親王の最期は分かっていませんが、1395(応永2)年に書かれた直筆の手紙以降、史料が残っていないため、この頃、亡くなったのではないかとされています。波乱万丈の生涯を送った皇子は、最期まで、自らの信じるもののために奮闘していたのでしょう。


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