菊池一族 the Kikuchi Clan

一色範氏

2021年03月19日

 一色範氏は、足利尊氏(あしかがたかうじ)が楠木正成(くすのきまさしげ)らに敗れて九州に逃れ、菊池武敏(きくちたけとし)率いる天皇方と戦った多々良浜の戦い以降、『九州探題』として九州を統括するよう幕府に命じられました。しかし現地の領主である少弐(しょうに)、大友、島津にとっては、自分たちよりも上の立場として派遣された範氏は邪魔な存在であり、特に多々良浜の戦いで尊氏を迎えた少弐頼尚(しょうによりひさ)からは大きな反発がありました。

 対応に苦労した範氏は、何度も幕府に辞任を願い出たものの、九州の複雑な状況をおさめることが出来る人材はなかなかおらず、引き続き範氏がこの任に当たっています。裏を返せば、範氏には幕府からの強い信任があったと考えることが出来るでしょう。

1350年頃の九州の勢力図

右図:1350年頃の九州の勢力図

 しかしこの状況に加えて、1348(正平3/貞和4)年になると南朝方では後醍醐天皇の皇子、懐良親王が菊池15代武光と合流を果たし、征西府として勢力を伸ばしていきます。更に北朝方の内部では中央で足利尊氏と弟の直義(ただよし)の抗争が起こり、直義方の直冬(ただふゆ)が九州にやって来ると、少弐頼尚が直冬を盛り立てて範氏から離反し、九州は1.範氏派(武家方)、2.直冬・少弐派(佐殿方)、3.南朝方(征西府)の3派に分かれて争い合うという混迷の時期に突入しました。この争いは中央の動きに連動しており、直義の勢いが増して直冬が範氏の職を奪う形で九州探題に任じられると、尊氏を頼れなくなった範氏は一時的に征西府に従った時期もありました。しかしその後直義・直冬が失脚すると、再び北朝方につき、息子の直氏(ただうじ)が九州探題に返り咲きます。そして1353(正平8/文和2)年、征西府に下っていた少弐頼尚を針摺原(はりすりばる)で追い詰めますが、救援にやって来た菊池武光に敗北し、これをきっかけに京都へと帰還しました。

 この後、九州探題には、細川繁氏(ほそかわしげうじ)、斯波氏経(しばうじつね)、渋川義行(しぶかわよしゆき)と次々に新しい人物が就任することになるのですが、いずれも征西府に対抗することは出来ず、17年にわたる範氏の健闘が偲ばれるものです。

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