桑満伯順(くわみつはくじゅん、1767-1856)
桑満伯順は、代々七城で医業を営んでいた家に生まれました。渋江松石やその父紫陽など優れた学者たちに学問を学び、特に渋江松石の一番弟子としてその誠実な人柄を讃えられました。父の跡を継いで医者となってからはその医術についても非常に評判が高く、50歳を過ぎた頃藩医に任じられ、藩の医学学校「再春館」で教鞭を執ることになりました。その後数年間「再春館」で勤めましたが、病気を理由に職を辞し、郷里に帰ることになりました。
帰郷後、伯順は隈府正観寺に私塾「水石亭」を開き、医学・漢学・書道を教えました。伯順は多くの人材を育てましたが、その中には木下韡村の名前もあります。後に君主の講義役にまで上りつめることになる韡村でしたが、少年の頃は先輩に反抗したり、生意気な口を利くような一面がありました。ある時伯順が、韡村に儒学者としての心得を説いて厳しく教え戒めたところ、韡村も自分の短所を悟り、何事にも謙虚な態度を心がけるようになりました。その後韡村は藩校「時習館」に勤めることになるのですが、「時習館」の学統(学問の流派)は伯順のそれとは異なるため、大いに心を痛めたといいます。しかし伯順は学統にこだわるような狭量さは見せず、逆に韡村を激励し、愛弟子の栄達を喜んだのでした。
1856(安政3)年、90歳になった伯順は、30年以上郷里の人々を教え導いてきた「水石亭」の門を閉じました。その生涯を終える1年前まで、教壇に立ち続けたのです。91歳で亡くなった伯順の墓碑文は木下韡村が作り、筆は同じく門下生であった城野静軒が執りました。
▲桑満伯順の墓
▲桑満伯順のものとされる書